クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.8.5)
コリント一 9:19〜27 福音に共にあずかる

9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。

9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

 今日の聖書でパウロは、「福音にあずかる者となるため」と語っています。福音のすばらしさを味わうためとの意味です。福音のすばらしさを味わう、どういうことでしょう。聖書に聞きましょう。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」(19節)。

できるだけ多くの人をクリスチャンにしたいとの目的でパウロは生きています。その目的のためなら、自分の自由を捨てて相手に合わせることもいとわないのです。

 そのことは、伝道する相手はユダヤ人なら、ユダヤ人のようになったし、伝道する相手が律法を持たない人なら、律法を持たない人のようになったと述べます。パウロは相手の立場に立ち、相手の気持ちを考え、相手のことを理解しようとしたのです。人を救いに導くために、イエスは神であったのに神という立場を捨てて人となったことと同じです。パウロはイエスを模範としています。

「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」(22節)。

 コリント教会には強い人がいました。自分たちは「自由だ」と言い、偶像に献げられていた肉を食べたり、偶像の神殿で食事の席についている人がいました。偶像は存在しないという真理に立って、偶像に左右されずに行動しました。しかし、コリント教会には弱い人もいた。

 統一協会とか、ものみの塔エホバの証人)という宗教があります。そこに属している人が、その信仰をやめ、組織から抜けようとすると、罰を受けるのでは、と恐れに捕らわれることがよくあります。それらの宗教では、恐れを与えて、抜け出ないように心をコントロールしています。
 脱会する人に真の神は一人しかいないから、罰を恐れる必要はないと語ることができますが、人間の弱さは罰を恐れ、脱会に踏み切れない面がありますし、脱会しても戻る可能性もあります。

 コリント教会では、偶像に献げられた肉を食べることに不安を感じている人がいます。また偶像なんか存在しない、と平気で食べる人がいます。自分たちは恐れに束縛されない自由があると信じています。パウロはこの自由を持っていますが、弱い人の立場に立って、肉を食べなかったのです。

 相手の立場に立ちながら、パウロは伝道を進めた。それは福音にあずかるため、と述べます。

「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(23節)。

パウロは福音を知り、福音を伝える使徒となりました。伝道の使命をキリストから受け取りました。弱い人を導くために、彼らと同じ立場に立ちました。それは自分が福音にあずかるためでもあるというのです。福音のすばらしさを味わうため、というのです。

 普通に考えると、福音のすばらしさを知ったからそれを伝えたいと思い、伝道するわけです。福音のすばらしさを知らなければ、伝道はできません。でもパウロは、福音のすばらしさを味わうために伝道すると行っているのです。どういうことでしょう。そもそも福音とは何なのでしょうか。

 伝道においてパウロはキリストを模範としました。キリストが神であることにこだわらず、人となったように、パウロも相手と同じ立場に立ちました。パウロは、キリストと一つになるという体験をしたのです。ここに福音のすばらしさがあるのです。

 福音とは何でしょうか。パウロはローマ書の1章で「福音とは、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である」と語っています。福音とは、イエス・キリストを信じれば、罪が赦され、永遠の命を与えられることと思われるかもしれませんが、もっと豊かで深いものなのです。

 「力」は、物を動かし、変えることができます。福音は人を変える神の力です。福音は罪と死の支配から人を自由にします。福音は、信じる者をイエス・キリストとの交わりに生きるように導きます。イエス・キリストとの交わり、それは神の言葉に全面的な信頼を置き、神の言葉に聞き従う歩みです。それは神に、イエス・キリストに自分を全面的にゆだねる歩みです。イエス・キリストと同じ心になって生きること、イエス・キリストがわたしの内に生きていることを経験する、それが福音のすばらしさを味わうことです。そうさせる力が福音にはあり、それを神の力と言います。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。

「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ3:8〜9)。

 パウロにとって福音とは、宣べ伝えるものであり、同時にその素晴らしさをいつも味わいたいと願うものなのです。福音の素晴らしさを宣べ伝えながら、自分がそれを味わうことがなければ、失格者になります。

 競技に参加する者は、賞を得るために走ります。賞を得るために節制し、努力します。福音を宣べ伝えながら、福音のすばらしさを味わうことのない失格者にならないように努力しているとパウロは述べ、弱い人に対しては弱い人になると語ります。

 今日の聖書の適用です。信仰に生きるとは、イエス・キリストとの交わりに生きることです。そこに素晴らしさがあるとパウロは語ります。

  • あなたは信仰に生きることをどう考えてきましたか。そこに信仰に生きる素晴らしさがありましたか。
  • 信仰に生きるとは、イエス・キリストとの交わりに生きること、と受けとめることができますか。

「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(コリント一1:9)。

  • あなたは、イエス・キリストとの交わりに生きていますか。イエス・キリストとの交わりに生きていないなら、的外れな信仰生活をしていることになるのではないですか。どう思いますか。


 福音は救いを得させる神の力です。神の力は、私たちを変える力です。信仰者個人を変える力です。教会を変える力です。福音として告げられることを信じる人の心に働くのが神の力です。

  • 人を変える神の力、福音をあなたは経験しましたか。
  • 救いの恵みって何ですか。あなたはいくつ数えることができますか。
  • 福音を学び、福音を信じて生きる訓練が大切ではないですか。教会で行われる信仰の学びに参加することを考えませんか。