クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.12.02)
ココリント一12:31b〜13:3 最高の道

 愛がなければ無に等しい、益がないとあります。本当でしょうか。流行歌は愛を歌いながらも、人は互いに傷つけ合って生きています。愛し合う関係がなかなか築けないのです。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル(1節)。

 異言という言葉が出てきます。神の霊に導かれて自分でも理解できない言葉で語り出すのです。これを異言を語ると言います。キリスト教会が誕生した日があります。ペンテコステと呼びます。

 この日、イエス様の弟子たちの上に神の霊が下り、ガリラヤ出身の弟子たちが、いくつかの外国語で神の偉大なみ業について語り始めたのです。ガリラヤ出身の弟子たちは、自分では全く知らない外国語で話し出したのです。今日でも、聖霊を受けたしるしとして異言を語ることを求める人々がいます。コリント教会では、異言を語ることができることを誇っている人たちがいたようです。

 愛がなければ、異言を語っても、騒がしい銅鑼、やかましいシンバルに等しいとパウロは述べます。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

 神の霊を受けて、神からの言葉を語ったり、信仰の深い洞察や知識を持っていても、山を動かす信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい、とあります。不可能を可能にするような信仰を持つことはすばらしいことだと思いますが愛がなければ無に等しいというのです。

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

さらには全財産を貧しい人のために使っても、殉教の死を遂げたとしても、何の益もないというのです。

愛がなければ、富も、地位も、名誉も、権力も、趣味など人間が追い求める幸福とされるものは一切、みな無に等しいというのです。何の益もないというのです。本当でしょうか。あなたは聖書のこの教えを受け入れますか? 

 愛がなければ意味がない、それは、誰よりも、私たちの心が知っているのではないでしょうか。愛が得られないので私たちは空しさを感じ、他のものを求めてごまかしているのではないでしょうか。私たちは愛を求めて教会に来ているのではないでしょうか。

 愛は、実は高嶺の花に等しいと言う人がいます。高嶺の花、それは手に入れたくても手に入れられないもののことです。高嶺の花というのは高地にあり、そこに出かけた人でないと見ることができないのです。

 「知床スミレ」というスミレがあります。花びらは白く、花びらの奥が黄色く、個性的です。北海道の知床の山奥にあります。これを見るには、体力とヒグマに勝つ強さが必要です。高嶺の花を見ることができるのは、そこに行った人が写真を残してくれたからです。「いいなあ」とあこがれの目で見るわけです。

 愛は高嶺の花? でも愛がどうしてすばらしいのか。愛が最高であることを誰かが見せてくれないと、なかなか分からないのです。

 4節以降で、パウロは愛について具体的語っています。

「愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない。自慢しない。高ぶらない。・・・」。

どうしてこれが最高の道?

 結婚生活が30年以上続いた人にアンケートを採ったそうです。30年の結婚生活を漢字一言で表してくださいというアンケートです。「忍」の字を答えた女性が少なくなかったそうです。「愛は忍耐強い」とありますが、「忍」と答えた人は、どんな気持ちだったのでしょうか。

 愛することが最高の道なのでしょうか。「愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない。自慢しない。高ぶらない」。どう見ても最高には思えないというのは、正直な感想でしょう。自分に何の益ももたらさないように思えるのです。自分が損をするように思えるのです。なぜ、愛することが最高の道なのか。

 聖書によると、人間は、神との関わりに生き、他者との関わりに生き、自然との関わりに生きる者として神に創造されました。その関わりとは、愛するという関わりです。聖書は、神は人間を愛していると告げ、神は愛ですと書かれています。そして人は、他者を愛するように神によって創造され、互いに愛し合いなさいと命じられています。

 イエス様は聖書の教えを一言で要約すればどうなるのか、との質問に対して

「神を愛し、隣人を愛すること」

と答えました。聖書の教えは、愛することが最高の道であることを教えています。

 アダムとエバが神の掟に背いた物語が聖書にあります。彼らは神がとって食べてはいけないという木の実を食べたのです。その結果何が生じたのでしょうか。自己防衛、逃避、責任転嫁が人間のならいとなりました。神に背いた結果、愛し合うべき人間関係の中に、自己防衛、逃避、責任転嫁が入り込んできたのです。

 人間関係が愛し合う関係であるべきなのに、そうでなくなったのです。争いや対立が入り込んできました。愛が高嶺の花になったのです。

 罪を悔い改めて神との関係を回復し、互いに愛し合うことによって人間関係を回復する、これが聖書の教えです。

 愛することは必ずしも心地よいものではありません。人を赦さなければならないこともあるからです。愛することは必ずしも楽しいこととは限りません。犠牲を払うこともあるからです。愛することは人からほめられるとは限りません。右の手のすることを左手に知らせるなとの教えもあります。ではなぜ、愛することは尊いのでしょうか。

 神が私たちを愛してくださったように、私たちが人を愛するからです。神は罪ある人間のために救い主を送り、愛を示されました。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(ヨハネ一3:16)。

 神は罪を犯す私たちに忍耐し、情け深く。そして私たちとの関係を回復してくださり、それを喜ばれるのです。人が悔い改めて神を愛するのを神は喜ばれるのです。神と人が互いに愛し合うのを神は喜ばれるのです。

 だから私たちも他者を愛して、関係を回復していくのです。本当に互いに愛し合う関係を築いていくのです。このような関係を回復する愛は尊いのです。最高なのです。

 愛することが最高の道であることは、誰もが心では知っているのです。人には利己心があるので、なかなか愛することができないのです。

 愛は神から出ます。神から出る愛を受けて、それを人に与えるのです。教会は、愛し合う人間関係を証しする場所として神が造られたものです。愛し合う人間関係をつくることによって教会は、この世にとって希望となるのです。

 愛し合う人間関係が可能です。問題は私たちの信仰とやる気です。不可能とあきらめるのか。神を信じてやってみるか。あなたはどっちですか。