クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.2.24)
コリント一13:4〜7 愛は不義を喜ばない

愛に生きる人は不義を喜ばず、真理を喜びます。未信者の知らない喜びがあります。


1.愛に生きようとするあなたは、神の教えに反することを喜ばない 


「不義」とは、辞書によれば「不正、悪事、偽り」を意味します。道徳的に見て、悪いことを意味します。多くの人は、不義を喜ばないでしょう。不義が行われることには反対するでしょう。今日の聖書は「愛」は不義を喜ばないとあります。多くの人が喜ばないのだから、「愛」に生きる人が喜ばないのは当然ということなのでしょうか。

不義とは、神を認めず、神の教えに逆らうことを意味します。神を愛し、人を愛そうとする人は、神の教えに逆らうことを喜びとしないとの意味です。このことを聖書で確認したいと思います。

「反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」(ローマ2:8)

「真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです」(テサロニケ二2:12)。

「愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(コリント一13:6)。

「真理」「真実」は同じギリシャ語が用いられています。不義の反対語は、真理であることが分かります。

真理とは、神がおられるということです。真理とは、神の言葉、神が語られる言葉のことです。真理とは、主イエスご自身のことです。

不義とは、真理に対する敵対、憎しみを意味します。この憎しみから、悪しき行為、不正、悪事、偽りが生まれてくるのです。神を畏れないところに悪が、不正が生まれるのは当たり前です。ですから不義とは、真理に逆らうことです。

さらに

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(ローマ1:18)

とあります。
不義と不信心は同じ意味と言ってよいです。不信心とは、神を神と認めないことです。神を知りながら、神として崇めることも感謝もしないことです。ですから、不義とは神を認めず、真理つまり神の言葉、神の教えに逆らうことです。不義とは、神を神と認めないこと、あるいは、神を知りながら神として崇めず、感謝しないことです。

クリスチャンのK子さんは大学二年生でした。留学に備えて勉強しています。ところが悪性の風邪を引き、病院に行きますが、ますます悪くなり、高熱のために意識がもうろうとし、挙げ句の果てに下半身麻痺という後遺症が残ってしまったのです。でも彼女は一度も不平や不満を言いませんでした。彼女は言います.「この病気のおかげで、今まで長い間、この足というどんなにすばらしい恵みを神様からいただいていたかということに気づきました。今まで感謝しないことはどんなに失礼な態度だったことでしょうか」(キリスト教入門 藤本光悦著より引用)

この失礼な態度も不義だと知らされます。

「愛は不義を喜ばない」。「喜ばない」というのは、明確な態度、断固とした生き方です。何を喜びとし、喜びとしないのか、明確にする態度です。愛に生きようとする人は、神の教えに反することを喜ばない、のです。


2.愛に生きようとするあなたは、自分の不義から離れようとする 


私たちはまず、自分が行う不義に対して、明確な態度を取る必要があります。自分が神の教えに反することをしたら、悔い改めることが必要となります。

間違いや罪を犯したら、神様に赦してくださいと祈ります。同じことを繰り返さないように力を与えてください、と祈ります。赦しを求めないで放置してはいけません。私たちは罪から清められる必要があり、そのためには罪を告白することが必要となります。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネ一1:9)。

あなたには、神の前に赦しを求めるべき罪がありませんか。
皆さんの中に、罪は克服できないと思っている人はいませんか。つい同じ罪を繰り返してしまう。なかなか克服できないので、私は罪深い者なんだと考えます。

神は赦して下さるのでありがたい、感謝だと思うのです。でもまた罪を繰り返してしまうのです。罪には打ち勝てないとあきらめてしまうことがありませんか。これは福音を知らないのが原因です。福音に対する無知が原因です。神様は、私たち信じる者に聖霊を送ってくださいました。

聖霊様は、私たちの内に住み、私たちを新しく造りかえてくださる方です。私たちが新しく造りかえられる、これも救い恵みです。恵みだから求める必要があります。

聖霊なる神は、信仰者の内に住み、聖書が真理であるとの確信を与え、私たちを新しく生まれ変わらせ、新しく造りかえてくださいます。聖霊なる神の働きを信じ、その働きを恵みとして受け取らないと、クリスチャンとしては不十分です。

信仰を持って生きる人は、この恵みを受け取り、この恵みに生かされます。神の恵みによって、罪に打ち勝って喜ぶことができるのです。


3.あなたは自分の思いを他者に伝えることができます 


聖書には、他の人が罪を犯したら、その人を悔い改めに導くことの大切さを述べています。

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(ガラテヤ6:1)。

教会に集う信仰の仲間の誰かが罪を犯したことに気づいた時、それを指摘することは、勇気のいることです。こういうことができるためには、他の人に対して冷静に自分の考えを話す訓練が必要とされます。

こんなことを言ったらどう思われるか、相手の反応を気にして、自分の言いたいことが言えないことがあります。人から頼まれたら断れない、ということもあります。断れない自分に嫌気がさします。

人からお節介を受けて、ああしたら、こうしたらと言われて不愉快に思っても、相手にそのことを伝えられないことがあります。

でも人は誰でも自分の気持ちを伝える権利を持っているのです。そこで境界線を考えます。あなたの家とあなたの隣の家に垣根、塀などで境界があったとします。隣の家の人が、境界を越えて、あなたの家の庭に来て、ゴミを拾ったらどうしますか。隣の家の人が、あなたの庭を見て「手入れが行き届いていないね」と言ったらどうしますか。「余計なお世話よ」と言いたくなりますよね。私たちと他の人との間には「心」の境界があるのです。境界を越えることは、よいとは限らないんです。

私たちは自分の考えを主張する権利があるし、他人から尊重される権利を持っています。
自分の考えを抑えて人の言いなりになったり、頼まれごとを断りたいのに断れなかったりするのは、他人に土足で自分の心に入らせることです。

自分を大切にしない行為です。話し合いというのは、互いの考えを伝え合うことで、大切なことです。

きちんと対話することができてこそ、他者の不義に対しても、きちんとした対応ができることでしょう。そのためにも、自分の思い、考えを、きちんと相手に伝える訓練は大切なことです。自分の思いを伝えない、それは自分に対する不義となります。あなたは自分の気持ちはきちんと伝えられますか。その上で、他者の不義に対して明確な態度を取るようにしたいと思います。


4.適用 

  • 不義を喜ばないという明確な態度を取りましょう。
  • 悔い改めるべき罪がありませんか。
  • 神様に告白していない罪がありませんか。あったら、きちんと悔い改めましょう。
  • 神の力を得て、同じ罪を繰り返さないようにしましょう。
  • あなたは他の人に対して自分の考えをはっきり伝えることができますか。
  • 伝えていますか。誰に対して、何を伝えたいですか。