クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.9.28)
聖書 ヨハネ 16:12〜15 聖書は聖霊によりて・・神の言にして

 聖書には、聖霊が登場します。私は牧師になった時、聖霊について何も知りませんでした。言葉だけは聖書にあるので知っていましたが。牧師になって最初に赴任したのが三重県の鳥羽教会でした。最初の年、地区で行った中高生のキャンプに参加しました。キャンプが終わってしばらくして、三重地区のある教会のCSの先生から手紙と本が届きました。送ってくださった方は、キャンプに来ていた人でした。手紙の中で、

「あなたの話には力がない。聖霊に満たされ、力を受ける必要があります」

というようなことが書かれていました。その頃の私は謙遜ではなかったので、腹を立てました。その後、韓国の教会を訪ねたことがあります。1988年。もう20年も前ですね。あちらは祈りが盛んです。刺激を受けて韓国から帰りました。そして「聖霊に満たされる」ということを求めて祈りました。聖霊に満たされる、聖霊に導かれるなど、聖霊の働きに関心を持ちました。そして聖霊の導きを受けて聖書を読むことができるようになりました。信仰生活にとって、聖霊の働きは大切です。


1.聖霊は神である 


 キリスト教の歴史での中で、聖霊が神と認められるようになったのは4世紀以降です。まず、マタイ福音書の最後に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」とあります。洗礼を授ける時には「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授ける」と宣言します。父、子、聖霊が並んでいます。父とは、父なる神様のこと。子とは、神の子であるイエス・キリストのこと。父なる神も、イエス・キリストも神ですから、聖霊も神と考えられます。


 また聖霊の働きとして、人を罪からきよめる働きがあります。日本基督教団信仰告白にも「聖霊は、我らをきよめて」とあります。人間の心を清める、それは神の働きです。自分でいくら努力しても、心を清くすることはできません。心を清くする、これは神の働きです。これもまた聖霊を神と考える理由です。


 聖霊は霊的な存在、形を持たず、その働きが見えないので、理解しがたいという面があるのは確かです。


2.聖霊の働き 


 聖霊の働きには三つの面があります。真理を教える働き。罪から清める働き。神の教えを実行する力を与える働き。今日は、真理を教える働きについて考えます。今日読んだ聖書はまさにそのことを語っています。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。

真理の霊、それは聖霊のことです。真理を教える聖霊の働きがあります。

聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一12:3)。

 聖霊によって「イエスは主である」との信仰の告白に導かれるわけですが、「イエスは主である」とは、聖書が告げる大切な真理です。


 日本基督教団信仰告白は、こう述べています。

「聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて全き知識を我らに与える神の言にして」。


 聖霊によって、聖書が神の言葉として受けとめられるのです。聖書は神の言葉です。でも聖書を読む人が誰でも、聖書を読んで神の言葉と受けとめるわけではありません。神の言葉として受けとめるとは、そこに書かれていることを真理として受けとめ、それに無条件に聞き従うことです。聖書が告げる内容に神の権威を認め、それに従うことです。


 聖霊の働きがなければ、聖書は一つの書物として読まれるに過ぎないのです。一つの書物としても、内容がすぐれていますから、教えを受けることができるし、励ましや慰めを受けることができます。


 聖霊の働きがある時、聖書を読んでいる私たちに、神との出会いが起きます。聖書の言葉を神の語りかけと受けとめるようになるのです。神との人格的な出会いがおきるのです。
出会いがある時、そこには反応があります。応答があるのです。たとえば、私があなたをほめれば、あなたは喜び、「うれしい」というでしょう。私があなたをけなせば、あなたは怒り、「何てこと言うのよ」と抗議するでしょう。ここには、人と人との出会いがあり、相手の言葉への反応があります。

 そのように、聖霊が働く時、私たちは神の語りかけを聞き、神に応答するのです。また聖書を神の語りかけと信じて読み、これに応答するのです。私たちは聖書を読む時、聖霊の導きを祈ります。そして神の語りかけと信じて聖書を受けとめていきます。そして、神の語りかけに応答していきます。聖書が告げることを「真理」として受けとめ、この真理に生きるようになるのです。


 小説を読んで、感動することがあります。涙を流すことも、時には笑うこともあります。それは私たちの反応ですが、小説を書いた著者に対する反応ではありません。書かれた事柄に対する反応です。その反応を私たちは楽しむことができます。それが小説を読む喜びといえるでしょう。


 聖霊に導かれて聖書を読む時、書かれている事柄に反応するだけではなく、神に向かって私たちは応答するようになるのです。聖霊は真理を教えるだけではなく、真理を人間に伝えたいと願う神との出会いをもたらすのです。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(テモテ一2:4)。


3.神と出会った私たちの変化


 聖霊の働きを受けると私たちに変化が生じます。聖霊の導きを受けて聖書を読んでいくと、私たちのうちに神の権威を認める信仰が育ちます。そもそも聖書が神の言葉であるとは、私たちは無条件にそれに聞き従うべきだという意味です。神の言葉こそ、最高の権威があるからです。


 人間は素直には権威を認めません。アダムとエバも、神の言葉に逆らいました。神は見えないので、そして神の権威と認めないとしてもすぐに罰が与えられるわけでもないので、人は簡単には神の権威と認めません。聖書が神の言葉で、最高の権威があるものだと認めることができるのは、聖霊の働きのおかげです。人間は、どうしても自分の考えを一番上に置きたいのです。


 しかし聖霊の導きを受ける時、自ずと神の言葉に服する謙遜な態度が生まれるのです。それと同時に、神の言葉への信頼が生まれてきます。ハイデルベルク信仰問答に、まことの信仰とは何ですかという問いがあります。

「それは神が御言葉において私たちに啓示されたすべてのことを私が真実であると確信する、その確かな認識だけでなく、聖霊が私のうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります」。

聖書の権威を認め、聖書に信頼して自ずと服する真の信仰を導くのが聖霊なのです。聖書に対する信頼は確信となります。


 聖霊により聖書の権威を認め、これに信頼する人は、聖書を読まずにはおれないでしょう。さらには、聖書に基づいて物事を考え、行動するようになるでしょう。その人こそ、心から「聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白する人です。


4.聖霊の導きを受ける方法 


 聖霊の働きを受けるにはどうしたらよいのでしょうか。祈り求めることです。

「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:11〜13)。

 祈り求める時に忘れてはならないのは、何のために聖霊を求めるか、を神に打ち明けることです。聖書が神の言葉であり、権威ある言葉であると知り、それに信頼したい、聞き従いたいからと、その目的をはっきり神様に告げることです。目的をはっきり述べて、聖霊の導きを求め、そして聖書を読むことです。ヘブル語で聖霊のことをル〜アッハと言います。


 これには、「風」という意味もあります。風は見えませんが、木の葉の揺れで風が吹いていることがわかります。同じように聖霊の働きは感じることはできませんが、聖書の言葉への信頼と確信が生まれる時、導かれていることがわかります。