本日のメッセージ(2009.3.1) 聖書 ヨハネ 4:21〜26
私たちは日曜ごとに礼拝を守ります。なぜ、礼拝を守るのでしょうか。皆さんは、なぜ、礼拝を守るのですか。クリスチャンの義務だからですか。日曜日、教会で礼拝をしているからでしょうか。
神様が私たちに礼拝を求めているからです。
私たちは様々な人間関係の中に生きています。相手との関係でどう振る舞うべきかが定まります。夫は自分を愛するように妻を愛するというのが聖書の教えです。妻はキリストに従うように夫に従うというのが聖書の教えエス。子供は親を敬うというのが聖書の教えです。自分の立場によって相手にどうするかが決まるわけです。
人は神を礼拝する、それが聖書の教えです。礼拝は神が人に対して求めているのです。そこで私たちは応答するのです。
礼拝をする、それは神への愛の告白です。私はあなたを信じます。あなたを信じて生きていきます。私を生かして下さるあなたを賛美します。あなたに感謝します。
神を信じて生きる人が、神に対してすることを礼拝と呼びます。礼拝とは、教会で行うことだけではありません。
- 個人で聖書を読み祈るのも礼拝です。
- 日々の生活もまた礼拝と呼ぶことができます。世の光、地の塩と呼ばれるこの世での働きもまた礼拝です。
今日の聖書でイエス様は、
「霊と真理をもって礼拝する」
と述べています。この意味を理解し、よりよい礼拝を献げましょう。
1.私たちの心を求める神
「 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(23節)。
「今がその時である」。つまりまことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって礼拝するときが来た、というのです。なぜ、来たと言えるのでしょうか。
霊と真理をもってする礼拝が、イエス・キリストによって可能となったことを意味します。イエス・キリストがおいでになったので、可能になったということです。旧約時代にはできなかったのです。
まず霊と真理をもってする礼拝は、神が求めるものです。「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(23節)。
霊と真理をもってする礼拝が何かを考えるために、旧約時代、神はイスラエルの民に何を求めたかを調べます。
「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)。
神はいけにえや焼き尽くす捧げ物よりも、愛や神を知ることを喜ぶのです。神様が喜ぶのは愛であり、神を知ることなのです。つまり神は、いけにえよりも、礼拝を献げる人間の心を求められるのです。神を愛する心、神を知ろうとする心を喜ばれるのです。
「何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか」(ミカ6:6)。
「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:8)。
ここでも、神は焼き尽くすささげものよりも、正義を行う心、慈しむ心、へりくだる心を求めています。
旧約時代、人は、神が求める心を献げることができなかったのです。
「礼拝する」と訳されたギリシャ語は、ひざまづく、ひれ伏すという意味です。
「まことの礼拝をする者たち」(23節)とは、神の前にひれ伏す人、ひざまづく人のことです。ひれ伏す、ひざまづく、そこには神を尊い方として崇める心、神の前に自分をなきに等しい者とへりくだる心があります。
この心を、神は求めておられるのです。そしてイエス・キリストが私たちに与えて下さるわけです。
だから、今、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来た」となるのです。
「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」(申命記10:12)。
主を畏れ、主を愛し、主に仕え、主の戒めを守る心を神は喜ばれ、この心を持つ人が幸いを得ることが神の喜びなのです。それが「霊と真理をもってする礼拝」となります。「霊を真理をもってする」とはどういうことかさらに考えます。
2.霊をもってする礼拝とは、応答する心をもってする礼拝
「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。
ここでは、「霊」は人間の霊、人間の心を意味しています。謙遜な心、罪を認め悔いる心を意味しています。あるいは神に従順な心ということもできます。
24節には、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。
神が霊であることが、霊と真理をもってする礼拝の理由となっています。神は霊だから、それにふさわしい態度を取らなければならないというのです。「神は霊」。どういうことなのか。
神に似せて造られた人間もまた霊的な存在です。イエス・キリストを信じる者には聖霊が与えられ、聖霊が内に住んで下さいます。聖霊が住んで下さるおかげで、信仰者は霊なる神との交わりを持つことができるようになりました。
- 信仰者は神に祈り、神に聞くことができます。
- 信仰者は聖書を通して、神の語りかけを聞き、神のみ心を知ります。
- そして信仰者は、神に応答し、神に従おうとします。聖書には、神の教えが書かれていて、私たちはそれに従うことが求められ、従うわけです。
「霊をもってする礼拝」とは、神に応答する心をもってする礼拝ということです。
応答する心、
- それは神の恵みのゆえに、神を賛美し、神に感謝する心です。
- 聖書を読み、説教を聞き、み心を知ったら、従う心です。
- 神の戒めは私たちを幸いに導くと信じ、感謝して従う心です。
霊をもってする礼拝、それは神に応答する心をもってする礼拝です。
3.真理をもってする礼拝とはイエスが教えて下さった神を礼拝すること
次は真理をもってする礼拝です。
イエス様は真理であり、イエス様によって真理を知ることができます。さらに
「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)。
イエス様は、私たちに神がいかなるかたかを見せてくれたのです。イエス様は、私たちに、神がいかなるかたかを教えて下さったのです。真理とは、神が誰か、ということです。
イエス様が教えて下さった通りの神様を礼拝する、それが真理をもってする礼拝です。神は、神ならぬものを礼拝する偶像礼拝を禁じます。
「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」(22節)。
救い主であるイエス様を通して、私たちは神を知り、その神を礼拝するのです。
「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)。神は、私たちが神がいかなるかたかを知って礼拝することを喜ばれるのです。そうでないと、私たちは、サマリアの女のように、知らないものを礼拝することになるからです。いや、自分で造り上げた偶像を礼拝しかねないのです。
聖書を読み、あるいは礼拝説教を聞き、私たちは神がいかなるかたかを知るのです。そしてその神を礼拝するのです。その神の前にひれ伏すのです。その神の前に跪き、その神を崇め、神の前に従順を誓うのです。真理をもってする礼拝とは、イエス様が教えて下さった神様を礼拝するということです。
「霊と真理をもってする礼拝」とは、神に応答する心を持って、イエス様が教えてくれた神を礼拝することを意味しています。
- あなたは、神がいかなる方であるとイエス様から教えてもらいましたか。
- あなたが礼拝する神って、どんな神ですか。
- あなたは、応答する心を持って礼拝していますか。
- 今まで、どんな応答をしてきましたか。
- 毎週礼拝し、献金しているから、礼拝していると考えてきましたか。
- あなたはどんな心を礼拝において神様に献げていますか。
これらの問いに応答してみて下さい。