本日のメッセージ(2009.7.5)
聖書 エフェソ 2:14〜22 聖なる公同の教会を信ず
使徒信条は、教会が「聖なる公同の教会である」ことを信じると告白します。今日は、私たちが聖なる公同の教会の一員とされていることを心から喜びたいと思います。
1.聖なる教会
信仰者として生きる時、とても大切なことは信仰者が何者であるかをわきまえるということです。
新約聖書には、色々と書かれています。イエス・キリストを信じる人は、神の子であり(ガラテヤ3:26)、新しく造られた者・新しく生まれた者であり(コリント二5:17、テトス3:5)、聖なる者とされているのです(ヘブル10:10)。
神様は、私たちのことをこのように見ているのです。私たちは自分を、神の子、新しく造られた者、聖なる者と考えていいのです。そう考えなければならないのです。神の子になりなさい、新しく造られた者なりなさい、聖なる者になりなさい、そのように努力しなさいとイエスは命じないのです。命じる必要がないのです。なぜなら、私たちはそうなっているからです。
信仰生活の出発点は、ここにあるのです。自分が何者であるかを認めること、それが出発点です。喜ばしい出発点ではないでしょうか。誰が何と言おうと、私は神の子であり、新しく造られた者であり、聖なる者です。うれしいではありませんか。そしてそのような者として生きていけばいいのです。
今日の聖書では、私たちは何者だと言われているのでしょうか。19節、
「聖なる民に属する者、神の家族である」
と言われています。私たちは、聖なる民に属する者、つまり聖なる民の一員であるということです。私たちは、聖なる教会に属する者だというのです。
ここで「聖なる」の意味を考えます。神様について、聖なる神と呼ぶことには何の抵抗もありませんし、「聖なる、聖なる、聖なるかな」と、礼拝の中で、神様を賛美します。しかし私たちが「聖なる者である」と言われると、違和感があるかも知れません。自分の中には、罪や汚れたものがあると考えるので、聖なる者とは到底思えないと考えるわけです。
この「聖」という言葉の意味は、「他のものとは区別された」という意味なのです。
たとえば聖書。この本は、聖なる書物という意味ですが、殺人、戦争、浮気なども描かれていて、清らかな本、汚れのない本とはいえません。しかし聖書は、他の書物と区別された書物です。この書物は信仰者を生み出すために、神様が導いて造らせ、神様が用いた本です。
他のものと区別され、神様のために用いられるものを「聖なるもの」と呼びます。旧約聖書では、神殿での礼拝に用いられるものは、清めの水を振りかけて聖別しました。聖別とは清めるとの意味です。私たち信仰者は、洗礼を受け、聖霊を注がれ、聖別されました。私たちは、他の人たちから区別されて、教会に連なっています。私たちは、他の人たちから区別されて、信仰に生きています。私たちが「聖なる教会を信じる」という時、信仰者の集まる教会は、他の人間的な集団とは違うことを信じるという意味です。
「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」(21節)。
私たちは、教会が聖なる神殿であると信じるのです。23節によれば、教会が神の住まいであると信じるのです。そして私たちは神の住まいである聖なる教会の一員とされているのです。
2.キリストの働き
この聖なる教会は自然にできたのではありません。信心深い人たちが信仰者の集いを作りたいと思って造ったものでもありません。これはキリストが造ったものです。
そもそも教会が最初にできた時、最初の信者は、ユダヤ人でした。やがてそこに、ユダヤ人以外の人々が加わります。聖書はそれを異邦人と呼びます。ところがユダヤ人と異邦人の間には、隔ての壁、溝がありました。
ユダヤ人には神から与えられた律法があり、彼らはこれを守ります。異邦人は律法を知りません。ユダヤ人から見ると、異邦人は罪を犯す汚れた者となります。ユダヤ人は、異邦人とはつきあおうとはしませんでした。つきあえば、自分たちが汚れるからです。
「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(16節)。
ユダヤ人は異邦人について律法を行わないと軽蔑し、異邦人はそういうユダヤ人に反感を抱く、そういう隔ての壁がありましたが、キリストは、この隔ての壁を取り壊しました。
「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(15節)。
私たちは救われるために、神の教えを守る必要はありません。救われるためにユダヤ人のように割礼を受ける必要もありません。割礼は、もはや必要がないことが確認され、ユダヤ人も異邦人も一つになったのです。人はただキリストの十字架のおかげで救われるのです。
「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」(15節)。
ユダヤ人と異邦人が一つとなったと言われています。人は皆罪を犯す者であり、キリストの十字架のおかげで罪赦され、神の子とされたことに一致点を見出すのです。神の近くにいたイスラエル、つまり神の民であったユダヤ人も、神から遠く離れていた異邦人も、今や一つとなりました、それが教会なのです。
同じ気持ちを持った人同士が集まるのは自然だし、簡単なことです。人は同じ趣味を持った人同士で同好会を造ります。しかし、教会は、考え方も、好みも、育った環境も、学歴も、異なった人々がキリストによって一つとされるところです。異なった人々がキリストを中心として、一つとなる群れなのです。
違いを意識して、私たちは私たち、あの人たちはあの人たちと言っていたのでは、それは教会を破壊することになります。18節。「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」。信仰は個人的なものであり、個人が神に近づき祈ればそれでよいと考えるかも知れません。18節では、違いのある人たちが聖霊によって一つとされた時、神に近づくことができると書かれているのです。
信仰は、信仰に生きる仲間がいて成立するという面があることを教えています。つまり教会の中で、仲間と一つとなることを通して、教会が教会になっていくのです。私たちはそういう教会の一員なのです。
ここでもう一度、私たちが何者であるかを確認します。私たちは、聖なる民であり、神の家族であると書かれています。私たちは、この世の人々から区別された信仰者の群れであり、神の家族なのです。神の家族として完全な状態か、といわれれば違います。しかし、私たちは、自分が神の家族に属していることを喜び、より成熟した神の家族の形成を目指すのです。
私たちは、私たちの中に神の家族の片鱗を見て喜ぶのです。お互いに違いがありますが、互いに尊敬し合い、互いに持てる力を出し合い、教会を築くことを喜ぶのです。そうして、一つになっていく、それが教会です。でも教会は人間の力で築くものではありません。
3.キリストによって建てられる教会
今日の聖書の箇所でキリストが文章の主語となっているところに注目したいです。15節。「キリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて」。キリストが働かれます。20節。教会は、「使徒や預言者という土台の上に建てられています」。教会は自分で建つのではなく、建てられるもの、つまりキリストが建てられるものなのです。
21節。「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」。教会は、キリストが成長させ、聖なる神殿にします。22節。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」。キリストのおかげで、教会が神の住まいになるというのです。
私たちは教会を信じると告白します。それは、私たちが属している金沢元町教会が、神の住まいであり、聖なる神殿であることを信じるということです。そしてもし私たちが、組み合わされるべく自分を差し出していくなら、キリストが私たちを組み合わせ、教会を成長させ、さらにさらに聖なる神殿を造って下さるのです。聖霊の導きを受けて歩む時に、私たちは神の住まいとなっていくのです。
未信者の人たちが、
「『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(コリント一14:25)。
この言葉が実現する教会になるのです。それは、私たちが頑張って努力する結果ではなく、私たちを用いて下さい、とキリストに私たちを差し出していく時に実現するのです。そのことを私たちは信じると告白するのです。
使徒信条は、教会について、さらに公同の教会と述べます。公同とは、普遍的という意味です。教会は、どの時代にあっても、どこにあっても、皆、同じ教会だということです。
どの教会も、異なる人々の集いでありながらキリストによって一つとされ、聖なる神殿、神の住まいなのです。ハンバーグを売るマクドナルド。どのお店に行っても同じ味のハンバーグを食べることができます。マクドナルドと名乗っている店なら、どの店でも同じ味を期待して買うことができます。
教会も同じように、どの教会も、神の住まい、聖なる神殿であると私たちは告白し、そのような教会の形成のために神様に用いられるのです。そして、教会が神の住まいであるからこそ、私たちは教会に属することを喜びとし、また誇りとするのです。
共に力を合わせて、キリストの教会を築くために、神様に用いられる者になりましょう。キリストを中心に異なる人々が一つになり、それぞれ異なる賜物を生かし合うのが教会です。