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隠退牧師 holala によるブログ

 罪の赦しを信ず

本日のメッセージ(2009.7.19)
聖書 コロサイ 1:13〜14 罪の赦しを信ず


 FEBCというキリスト教のラジオ番組で、質問が寄せられました。

職場でどうしても苦手な人がいます。相手も私のことが憎いんじゃないかって思います。イエス様が「赦す」というとき、この人のことが思い浮かぶんですが、でも駄目なんです。赦せないんです。神様に罪赦されて感謝しています。でも、現実の自分はそれとは矛盾してます。こんなの、自分のわがままだってことは分かってます。でもどうしたらいいんでしょうか。こんな生き方しかできない自分が悲しいです。

今日は罪の赦しについて聖書に聞き、「罪の赦しを信ず」と告白することの意味について確認したいと思います。


1.罪とは何か 


 聖書に一番最初に創世記があります。この創世記の3章に、アダムとエバが罪を犯すという物語があります。神に造られた最初の人間がアダムとエバでした。彼らはエデンの園で生きていました。そこには食べるのによい実をもたらすあらゆる木がありました。そして神はどの木からも自由にとって食べてよいと命じました。園の中央には、命の木と善悪を知る知識の木と二つの木がありました。神は、善悪を知る知識の木の実だけは食べてはいけないと警告しました。なぜなら、それを食べると死ぬからでした。


 エデンの園にはその木の実を食べてもよい木は、数え切れないほどありました。食べてはいけない木は、たった一本でした。神はどの木からも食べてよいと命じ、園の中央にある善悪の知識の木の実だけは食べてはいけないと禁じました。罪とは、神に背くことです。神の命令に逆らうことです。罪とは神の言葉に従わないことですが、それは、神に対する反逆です。アダムとエバは、エデンの園で神の命令を守って生きていました。


 ところがそこに蛇がやってきたのです。蛇は巧みに、エバに語りかけます。「神は、善悪の知識の実について、食べても死にませんよ、いや食べると目が開け、神のように善悪を知る者になるのですよ」と言ったのです。蛇は、食べてみたらとは一言も言いませんでしたが、食べるように誘惑したのです。そしてエバは禁じられた木の実を食べ、そしてアダムにその木の実を渡しました。そしてアダムも食べてしまいました。


 アダムとエバは、神の命令を破り、罪を犯したのです。神がエデンの園の中を歩く音が聞こえてくるとアダムとエバは身を隠します。神は、「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と言います。アダムとエバは、神の言いつけを守らなかったこと、神に逆らったことを素直に謝りません。アダムは、エバが木から取って自分に渡したので食べてしまいましたと自分の責任を認めず、人のせいにしたのです。エバもまた、蛇がだましたので食べてしまいましたと、自分の責任を認めず、人のせいにしました。


 神は責めるために彼らに近づいたのではありません。自分の犯した罪を認めれば、神は彼らを赦したのです。神は彼らを赦し、彼らと良い関係を持ち続けたかったのです。しかし彼らは、神が近づくと身を隠し、神から逃げようとしました。それは、神にとって残念な状態なのです。だから、彼らに近づき、彼らが謝れば赦し、彼らが神と共に歩むことを願ったのです。しかし彼らは、自分の罪つまり神の命令に逆らった責任を認めず、人のせいにしたのです。


 なぜ彼らは罪を認めなかったのでしょうか。認めたら神がどういう態度に出るのかわからず恐れを覚えたのかも知れません。あるいは、プライドが邪魔して謝ることができなかったのかも知れません。創世記の物語は、罪とは神の言葉に逆らうこと、神に逆らうことだと教えています。そして罪を犯した場合には、素直に自分の過ちを認め、神に赦しを求めるべきことを教えています。


2.赦しの受け取り方 


 マタイ福音書18章で、イエス様は一つのたとえを語りました。ある王が家来に貸しているお金の精算をしようとしました。ある家来が、一万タラントンの借金をしていました。これは莫大な借金なのです。一タラントンは、6000デナリ。一デナリは、一日の労働賃金に相当します。これを1000円とすれば、一タラントンは、600万円。一万タラントンですから、600億円です。返済は不可能な莫大な借金です。


 王が返済を命じると、家来は、ひれ伏して、「待って下さい。必ず返します」とだけ、繰り返し語るのです。その姿を見て、憐れに思った王は、借金を帳消しにするのです。ところがその家来が、王のもとを去り、外に出ると仲間に出会います。彼はその仲間に対して、100デナリのお金を貸しています。そして厳しく取り立てようとします。そして返せないので牢に入れるのです。それを聞いた王は、怒り、その家来を牢に入れます。そして王は言います。「私がおまえを憐れんでやったように、おまえも自分の仲間に憐れんでやるべきではなかったか」。


 イエス様はこれを罪の赦しのたとえとして語りました。王は、神様です。家来は、王の憐れみによって赦されたということです。そして牢に入れられることなく、家来として王に仕えることができました。王の憐れみによって、借金が赦され、今まで通り、王に仕えることができたということです。ですから赦しは、感謝をもって受け取られるべきなのです。王の憐れみに対する感謝の気持ちだけで受け取られるべきものです。感謝を持って受けとめるということは、

自分も王と同じように憐れみ深くなるということです。

 もしそこに、「得をした」というような思いがあると、このたとえのように、仲間に貸したお金は帳消しにしないということがおこるのです。感謝の思いだけで受け取るのか、感謝の気持ちに「得をした」という思いが混じって赦しを受け取るのか、そこには大きな違いがあります。自分がどんな気持ちで赦しを受け取ったのかは、試されるとわかります。このたとえでは、お金を貸している仲間に出会うことによって、この家来は、得をした、という思いを持っていたことがわかります。そういう自分の気持ちがわかったらそこでどうするか、ですね。


3.キリストの十字架の恵み 


 この世の人も赦しの問題で悩みます。どう解決するかというと、気持ちの切り替えによって解決しようとします。自分の人生を決めるのは、自分です。だから、ある人を赦せないという思いに縛られて、その人に自分の人生が左右されるのを拒否すると考えるのです。自分の人生が左右されるくらいなら、忘れよう、赦せない思いを捨てよう、と考えるのですね。

 しかし、私たちはキリストによる赦しを受けることを大切に考えます。使徒信条は「罪の赦しを信じます」と告白します。旧約聖書を読むと、イスラエルの民は罪を犯した時、神に動物のいけにえをささげて赦しを求めました。罪の赦しを求める人が、神にいけにえをささげたのです。イエス様は、自らを罪のためのいけにえとしてささげ、十字架の死を遂げました。イエス様は、私たちがささげるべきいけにえになって下さったのです。私たちが罪の赦しを受けるために、償いのいけにえを献げるべきなのに、神の方から、イエス様を罪のいけにえとして、ささげたということです。


 赦しを与える方がいけにえをささげるというのはおかしな事です。しかしそこには、私たちの罪を赦す神の憐れみが示されているのです。イエス・キリストの十字架、そこには、私たちへの神の憐れみがあります。罪の赦しを受けるとは、神が、罪を犯した私たちを赦し、受け入れて下さることを感謝するということです。神の憐れみを感謝するということです。私たちがどのような罪を犯したとしても、神はイエス様の犠牲のゆえに、私たちを赦し、受け入れ、愛して下さるということです。


 神様に「私を憐れんで下さい」と祈ることに抵抗がありますか、どうですか。ある人たちは抵抗を感じます。憐れみを受けることは、自分が惨めな存在であることを認めることになるからです。自分が惨めだと認めたくない人は、「憐れんで下さい」と祈ることに抵抗を感じるのです。しかし、罪の赦しを受けるとは、神の憐れみを受け取ることであり、罪の赦しが必要であるとは、自分が惨めな存在であるということです。私たちは、神の豊かな憐れみによって、赦され、受け入れられているのです。そして憐れみ深い神を喜ぶのです。その時、私たちも憐れみ深い者になりたいと願いが心に湧いてくるのです。


 神の赦しを受けた私たちの特徴は、平安です。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8:1)。

 神の赦しを受けるなら、神の裁きを恐れる必要はありません。私たちはこの世にあって、神の怒り、神の罰を恐れなくてすみます。もはや私たちは罪に定められることがないからです。そして、終わりの日の最後の審判においても、罪に定められません。神の赦しを受けているからです。ただ神の憐れみによって私たちは受け入れられています。このことが私たちに平安をもたらします。

「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジプト記34:6)。

 これが聖書の告げる神です。神の憐れみが、私たちの平安の源です。聖書には赦されているのに、本当に赦されているのか、と疑いを持つ人たちが登場します。創世記に出てくるヨセフの兄たちです。私たちは、神の赦しを信じると告白します。神の赦しを疑うことはしませんとの告白です。それ故、平安が恵みとして与えられます。



祈り

天の父、イエス・キリストの十字架の死によって、私たちに罪の赦しが与えられたことを感謝します。
私たちがあなたの憐れみのおかげで罪赦され、あなたの憐れみが私たちを覆っていて下さることを感謝します。
自分が罪を犯し、惨めな者であることを認めることができますように。自分がそのような者であることを認める者に神の憐れみが豊かに注がれていることを教えて下さい。
あなたの憐れみから、豊かな平安が流れてくることを経験させて下さい。
あなたの愛と憐れみを感謝します。
イエス・キリストのみ名により祈ります。