クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.2.13)
聖書 ルカ4:1〜13 主を試してはならない


 今日も荒野の誘惑の物語です。マタイ福音書とルカ福音書が、三つの誘惑を書いていますが、誘惑の順番が異なっています。ということは、マタイ、ルカのどちらかは、事実と異なる嘘を書いていることになるのではないか、という人もいるかもしれません。聖書は、ただ事実を伝えようとするものではなく、福音を伝えようとして書かれています。著者によって見方が異なると、同じことを伝えるにしても書き方が違ってくるわけです。


マタイは、悪魔を拝むという誘惑を最後に書いていますが、悪魔を拝むという誘惑を最高の誘惑として描いているわけです。主イエスは聖書の言葉を持って悪魔の誘惑を退けているので、ルカは、悪魔が聖書の言葉を使って誘惑し、悪魔の誘惑の恐ろしさ、巧みさを描いているのです。


 悪魔は主イエスを神殿の屋根の端に立たせ、そこから飛び降りたらどうだ、と誘います。何よりも、聖書にこう書いてあると、あたかもそれが聖書に従うことであるかのように言うわけです。


悪魔は言います。

「神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える」。

 悪魔は、詩篇91篇にある言葉を引用します。この詩篇は絶大な信頼を神に寄せる内容になっています。

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人よ。
神はあなたを救い出してくださる
仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽をもってあなたを覆い
翼の下にかばってくださる。
夜、脅かすものをも 昼、飛んで来る矢をも、
恐れることはない。
暗黒の中を行く疫病も/真昼に襲う病魔も。
あなたの傍らに一千の人
あなたの右に一万の人が倒れるときすら
あなたを襲うことはない。
あなたは主を避けどころとし
いと高き神を宿るところとした。
あなたには災難もふりかかることがなく
天幕には疫病も触れることがない。

 絶大な神信頼です。悪魔は、神が助けてくださると書いてあるから飛び降りたらどうだ。あなたが飛び降りて神が助けてくだされば、これを見ていた人々は、あなたを信じるだろうし、多くの人を信仰に導くことができる、あなたの働きは成功する、というのです。


 実際、主イエスの活動中、奇跡を見せてくれたら信じてあげようと人々は言いました。また主イエスが十字架につけられたとき、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と言いました。これらは、悪魔の言葉と同じです。人は失敗を恐れ、成功を願うものです。私の言葉に従った方が、救い主としてのあなたの使命はうまく行くのではないか、というわけです。


これに対して主イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と答え、誘惑を退けます。神を試みるとはどういうことなのでしょうか。


「言われている」ということは、聖書に書いてあるという意味です。主イエスが引用した言葉は、申命記6章16節にあります。そこにはこう書かれています。「 あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」。つまり、イスラエルの民が神を試みたという出来事があったのです。どんな出来事だったのでしょうか。


 イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しんでいましたが、神の大いなる力によって、エジプトを脱出することができ、自由に生きることのできる土地を目指して旅をします。そして彼らは荒野を旅します。すると食べ物に困ります。また飲み水に困ります。困難に直面するわけです。するとイスラエルの民はどうしたのかというと、不平、文句を言うのです。

「ここで飢え死にするくらいなら、エジプトにいた方がよかった。ここで飢え死にさせるためにエジプトから導き出したのか」。

 これはひどい不平ですね。助けを求め、助けてくれた神に言う言葉なのか、と思います。水がないときは、「我々に飲み水を与えよ」と怒るのです。その時、モーセは、「なぜ、主を試すのか」(出エジプト17:2)と言うのです。イスラエルの民は、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(17:7)と言ってモーセと争ったとあります。


 おそらくモーセは、「神に信頼して助けを求めよう」と言ったのです。すると民は、「神は、我々の間におられるのかどうか、疑問だ,と神に助けを求めてもどうなるのかわからない、助けを求めても無駄だ、じゃあ、神に祈って水を出してもらえ」とさえ、言ったと想像できます。するとモーセは、「なぜ、主を試すのか」というのです。


 イスラエルの民をエジプト王の支配から救い出すために、神は様々な奇跡を行いました。荒野で食物がなくなったときも神は、天から食べ物を降らせて、イスラエルに食物を与えたのです。そして神は、自由に住むことのできる地へと連れて行くと、約束しておられるのです。


 困難に直面するイスラエルの民を神がこれまで何回も救ってくださった事実を認めず、神は自分たちの間にいるのかどうか、と神が共におられることを疑い、今回は助けてもらえるかどうかわからないと疑うのです。さらには、心を頑なにして、約束の地に連れて行くという神の約束の言葉を信じようとしないし、今回も助けてくださるに違いないと期待せず、頑なに信じようとしないのです。疑い、頑なさ。罪深さが現れます。若い頃、初めてここを読んだとき、イスラエルの民は何と罪深い民なんだと思いました。今は、その罪は、私どもの中にもあると思っています。


 彼らは「我々に飲み水を与えよ」と要求するだけです。これまでも神は窮地を助けてきたのに、「飲み水を与えたら信じよう」というのは、神を試すことだ、とモーセは言うのです。奇跡を見せたら信じてやろうという態度です。少しも神を信頼していません。信頼するとは、しるしを見ずとも信じるということです。しかし、信頼するとは根拠がないのに信頼することではありません。神はそれまで奇跡を行って助けているのです。


 試すという言葉は、誘惑するという言葉と語源が同じ言葉です。だから神を試すとは「神を誘惑する」ということです。水を出してくれたら信じるよ、と神を誘惑することなのです。相手を信じようとしないで、そうすれば信じてやると相手に言う、相手がそれをするかどうかを見る、これが試すということです。特に自分の身の安全が失われる場合は、人は冷静さを失い、試したくなるものです。


 以前、教会員の息子さんが重病になったとき、神様の癒しを信じて祈りましょうと勧め、共に祈り続けたことがありました。ある時、彼女は、「あなたの癒しを信じますが、癒されるというしるしを見せてください」と祈りました。親としたら切ない無理もない祈りだと思います。しかし、これは神を試す祈りです。神に信頼したら、信頼し続けるのです。信頼を貫く、それが信頼するということです。神に信頼したとき、その信頼が裏切られるようなことが起きたとき、どう考えるのか、という問題があります。不本意な結果になるかもしれないし、そうなったら困るからという理由で、人は安全な道を選ぶことがあります。神を信頼する道でなく、落胆しない道を選ぶのです。


 教会員の息子さんは、残念ながら亡くなりました。祈りは聞かれませんでした。当時、私も落胆して、どう受け止めていいかわからず、しばらく病人の癒やしのために祈ることはできませんでした。しかし、心の整理がつきました。神は、病気を癒やすことのできる神であると信じることには変わりません。個々のケースでは、癒やす、癒やさないは、神の御心があるのだと悟りました。


 主イエスは十字架の道を歩みます。それが神の示された道です。しかし果たしてそれでいいのか、十字架で死んで、果たして救い主としての役割を果たせるのか、十字架から降りた方が、いいのではないか、奇跡を見せた方が成功するのではないか、と思いたくなります。悪魔はここを誘惑しているわけです。だから飛び降りて、奇跡を見せたら人は信じるのではないか、と誘惑します。しかし、神を信頼し、神が示される道を歩めばいいのです。


 聖書にこんな話があります。ダニエル書3章です。イスラエルの国がバビロン帝国に滅ぼされ、多くの人が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。そしてイスラエルの民はバビロンで生活をすることになります。やがて、バビロンの王は、イスラエルの若者を家来に取り立てます。またバビロンの王ネブカドネツァル王は、金の像を造り、自分の支配下にあるものはすべてこれを拝むように命じます。イスラエルの若者が取り立てられるのを快く思わないバビロンの人は、彼らが金の像を拝んでいないと王に告げるのです。


 王は、「金の像を拝まないものは、燃えさかる炉の中に投げ込まれる」と命じていましたから、王は、この三人の若者に言います。「金の像を拝みなさい。拝まないなら、直ちに燃えさかる炉に投げ入れる。私の手からおまえたちを救い出せる神がいるだろうか」。


 若者たちは答えました。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」。彼らは、神は助けてくださると信じると告白し、たとえ、神の助けがなくても、金の像は拝みません」というのです。妥協しないのです。信仰を貫くのです。神に対する信頼は、徹底しています。王は血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱くするように命じました。

もし、私どもが若者の立場だったらどうするのでしょうか。

  • 命が大事、と妥協するかもしれません。それは偶像を拝む罪を犯すことになります。
  • から、私どもは迷うのです。信仰者でありたいし、神の救いを信じたい。
  • しかし目の前には、王がいる。どう考えても神の助けはありそうもない。
  • じゃあ死を覚悟して金の像を拝まないのか。
  • それとも「神様、あなたが助けてくださるというしるしを見せてください」と祈るのでしょうか。


 私どもは、主の祈りにおいて「試みにあわせないでください」と祈り、こういうきびしい選択に直面することのないように神に祈ります。しかし、きびしい選択に直面するときがあるのです。


 妥協を選択するなら、悩みません。神に信頼しようとするから、迷うのです。恐ろしいのは、この迷いを迷いとして受けとめ、信頼する決断をどうしたらできるか、と聖書を読んで祈ることをせず、安易に妥協してしまうことです。

「後の世代のために/このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」(詩篇102:19)。

 昔から、信仰の先輩たちは、人々が神を崇めるようになるために生きる、という道を教えてきました。神の栄光を現す、それが信仰者の生きる目的であると告白してきました。この詩篇も、神を賛美するためにこそ、人は造られたのだと語ります。


 神を信じるイスラエルの民の中には、「神に仕えることはむなしい」(マラキ3:14)と言う人がいました。悪魔がすべての繁栄を与えるといいましたが、人々は、自分の人生の喜びを求めます。悔いのない人生を送るという思いが、無意識のうちに絶対的な基準になってしまうために、神に信頼するかどうか、考えるべき場面なのに、迷わずに、自分の思いに流れてしまうことがしばしばあります。このことは本当に警戒しなければならないと思います。


 神に仕えることが空しくならないために、奇跡を行って人々を信仰に導いたらよいのではないか、神殿から飛び降りろと悪魔は語ったのです。

 信仰が生きるためのアクセサリーでないなら、自分の生き方そのものなら、神に信頼することが信仰であると知りたいのです。信頼するとき、神の祝福が現れるのです。


祈り
 天の父、私たちを誘惑から遠ざけてください。試練に遭うときは、あなたに信頼する道を選ぶことができるように導いてください。疑い、かたくなな罪に陥ることのないようにお守りください。
 試練に遭っているのに気づかずに、無意識のうちに妥協の道を、よしとして選ぶことがありませんように。神に信頼して歩む幸いへ導いてください。