クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.4.10)
聖書 22:14〜23 主の切なる願い


 毎月最初の日曜日には、聖餐式を行っています。小さく裂かれたパンを食べ、小さな杯に入れたぶどう酒を飲み、主イエスの死を覚える儀式です。洗礼を受けておられない方には、これを受け取ることを控えてくださいとお願いをしています。ですから、クリスチャンになっていない方は、自分が受け取ることができないと思うと、自分はここにいてはいけないというような気がして、あるいは差別されているような気持ちになって、この日は礼拝に来たくないと思われるかもしれません。


 今日、これからの説教でお話ししますが、この聖餐は、主イエスが「わたしの記念としてこのように行いなさい」とお命じになっただけではなく、主イエスの切なる願いをもとに行われるのです。そして主イエスは、ここに集うすべての人に聖餐を受けてほしいと願っておられます。私どもは、主イエスによって聖餐に招かれているのです。信仰を持ち、聖餐を受けてほしい、との切なる願いを主イエスはもっておられるのです。


 では、なぜ、そのような願いを主はもたれるのでしょうか。主の思いに、私どもの心を向けたいと思います。


 主イエスは、十字架で犯罪者として処刑されるのですが、その前の夜、弟子たちと一緒に食事をとられます。それは、過越の食事と呼ばれる特別な食事でした。主イエスは、弟子のペトロとヨハネに命じて、過越の食事ができるように準備を命じます。マタイ、マルコ福音書では、弟子たちの方から主イエスに、過越の食事はどうしますかと聞いています。しかしルカ福音書では、主イエスが、過越の準備をするように命じています。
ルカ福音書では、それだけ、主イエス過越の祭りを特別に考えていたことが分かります。


 そして15節で「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に過越の食事をしたい、とわたしは切に願っていた」とおっしゃっています。「切に願っていた」と訳されていますが、原文では、「何とかして実現したいと切に願っていた」と訳せます。非常に強い願いであることが分かります。なぜ、主は、弟子たちと一緒に過越の食事をすることを切に切に願ったのか、皆さんどう思いますか。


 15節の「苦しみを受ける前に」の「苦しみ」は、十字架刑に処せられることを意味します。ですから、十字架にかかる前に、是非とも、弟子たちと一緒に過越の食事をしたいというのです。主イエスは翌日、十字架で犯罪者として処刑されます。もちろん、犯罪を犯してはいません。主イエスに敵対する者たちの陰謀によって殺されてしまうのです。主イエスが十字架で死ぬのを見たら弟子たちはどうなるのでしょうか。大きな落胆を覚えるでしょう。今まで主イエスと共に神の国を宣べ伝えてきました。その働きが無に帰する空しさ、絶望感に弟子たちはとらわれるかもしれません。


 主イエスは、ご自分の死、十字架の死が実は、神の計画の中にあることを弟子たちに伝えたいのです。十字架の死が挫折の死ではなく、神の計画の中にある死であること、ご自身の死の意味を弟子たちに伝えたいのです。そして過越の食事こそ、死の意味を説き明かすことになるので、弟子たちと一緒に食事をしたいと願われたのです。


 その願いには、さらに主イエスの深い思いがあるのです。その思いを知るヒントが、過越の食事です。イスラエルには、過越の祭りという祭りがありました。このお祭りは、ずっと昔に起きた出来事を記念する祭りです。旧約聖書出エジプト記に事の次第が書かれています。


 内容をかいつまんで紹介します。イスラエルの民は昔エジプトの国で奴隷で、辛い苦しい生活を強いられていました。その苦しみがあまりにも苦しいので、神に救いを求めたのです。何年も何年もイスラエルの民は祈りました。そして時が至り、神はイスラエルの民の救出に乗り出します。当たり前ですが、エジプトの王は、イスラエルの民を奴隷として働かせようとします。神は指導者としてモーセを立て、エジプト王と交渉をさせます。


 モーセは、イスラエルの民を自由にしないとエジプトに災いが臨むと警告をします。実際に災いが起きますが、エジプト王は、イスラエルの民を自由にしません。災いが何度も生じても、エジプト王は、首を縦に振りません。そこで最後に、神は大きな災いをくだすのです。夜、神の使いがエジプト中を行き巡り、家ごとに災いをくだすのです。家ごとに、最初に生まれた子供が皆死ぬという災いです。


 神はイスラエルの民に命じます。その夜、小羊を屠り、その血を家の玄関に塗るように、そして食事をするように。血が塗ってある家は、主の使いは通り過ぎる、過ぎ超すというのです。エジプト人の家で死人が出ない家はなく、大いなる叫びがエジプト中に起こりました。イスラエルの家は無事です。


 この出来事を思い起こす食事をする、それが過越の食事です。過越の食事をするたびにイスラエルの民は、神が、エジプトの苦しみから自分たちを救ったことを思い起こすのです。エジプトの苦しみから救った神こそ、自分たちの神であることを思い起こすのです。


 エジプト王の奴隷状態から解放され自由にされたということが、イスラエル民族の原点なのです。十戒という神の戒めがありますが、十戒の最初の言葉はこうなっています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。神はこのように自己紹介をするのです。


 神というのは漠然とした存在ではなく、イスラエルの民をエジプトの苦しみから救い出した神なのです。神は大いなる力を持つ神、生きて働かれる神、イスラエルを救う神なのです。無力な者を顧みる神、苦しむ者を顧みる憐れみ深い神、それがイスラエルの神なのです。その神が、自分たちに開放を与えてくださったことを思い起こすのが過越の食事です。


 小羊の血が玄関に塗られることにより、イスラエルの家は災いを逃れることができました。小羊の血が救いをもたらしたということができます。そして主イエスが十字架で死ぬ時、主イエスは、小羊として死ぬのです。主イエスは、神の小羊なのです。主イエスが十字架で死に、血が流されることによって、救いが起こるのです。主イエスも私どもに解放、自由をもたらすのです。

主が与える救い、それは罪と死の支配からの解放です。イエス・キリストは信じる者に永遠の命を与え、罪の赦しを与え、罪からの自由を与えるのです。

 罪とは、神を認めず、神を崇めないことです。神に背を向けて生きることです。この罪は、様々な問題を私どもの生活にもたらします。そして私どもは苦しむのです。また死の恐れは、私どもから生きる喜びを奪います。人は死を恐れます。しかし恐れていないかのように生きています。死を忘れ、思い出さないようにして生きています。違いますか。


 さらに罪のために、私どもは様々な恐れに縛られるようになります。たとえば、人からどう思われるか、人の目を恐れる。そんな歩みを人はするのです。恐れが人の行動の動機となるのです。恐れなくてすむにはどうしたらいいか、を考えて生きているのです。罪は様々な束縛を私どもに与えます。自己中心、思い煩い、劣等感、ねたみ、憎しみ、赦せない思い、・・・。生きることが喜びでなくなります。 

主イエスは言うのです。

「私の身を犠牲にしてもあなたたちに与えたいものがある。それを是非受け取ってほしい」。

 小羊の血が、エジプト王からの解放を与えたように、主イエスの死は、罪と死の支配からの解放、自由をもたらすのです。この自由を是非受け取ってほしい、これが主イエスの心にある思いです。

「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である」(19節)

 過越の食事の時、主イエスはパンを裂き、それを弟子たちに与えました。弟子たちは裂かれたパンを食べます。そのパンは、主イエスの体だというのです。弟子たちはパンを食べる時、主イエスが十字架で死んだことを思い起こすのです。主イエスが十字架で死んだ、それは言い換えると、主がご自分を私どもに与えたということです。主イエスは、ご自分を私どもに与えてくださったのです。自分を与える、それは愛の表れではないでしょうか。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)

と主イエスは言われます。主は、私どもを「友」と呼び、私どもにご自身を与えてくださるのです。聖書には、こういう言葉もあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。自分の愛する子を与える、それもまた、自分を与えることに等しく、そこに愛があるのです。


 親は、子供を守り育てます。子供に自分を与えている、そう言ってよいのではないでしょうか。親は、子供のために、家族のために、働きます。苦しくても忍耐して働きます。子供のために、自分を与えているのではないでしょうか。時間をさいて、子供と遊んだり、絵本を読んだり、キャッチボールをしたり、自分の時間を子供に与えています。教育のために大金を支払います。それは愛の表れと言ってよいのではないでしょうか。親は子供に愛を注ぎ、自分を与えているのではないでしょうか。


 主イエスが、過越の食事を切に願ったこと、それは言い換えると、主イエスの愛を受け取ってほしいということです。

 主イエスはご自分の身を犠牲にして、つまり十字架で死ぬことを通して、私どもに解放と自由を与えようとされているのです。主イエスの愛を受け取り、解放と自由を受け取ってほしいという主イエスの切なる願いが過越の食事にあったのです。


 主イエスは、この弟子たちとの食事において、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と命じ、私どもが聖餐と呼ぶ儀式を行うように命じました。イスラエルの民が、エジプトからの解放を過越の祭り、過越の食事で記念し、思い起こしたように、私どもは、聖餐において、主イエスの愛を受け取り、主イエスが与えてくださる解放と自由を受け取るのです。


 聖餐式でいただくパンとぶどう酒は、小さなわずかなものです。しかし、そこには主イエスの愛が、願いが込められています。わたしを信じ、神の子とされた者たち、神の子としての自由に生きてほしい、私はそのために、自分をあなたに与えたのだとおっしゃるのです。聖餐は、この感激を味わうためのものです。わたしのからだを与える、こうおっしゃって主は、私どもへの愛を示されたのです。


祈り

独り子を犠牲にしてまで私どもを救おうとされる父なる神様、あなたの愛を感謝いたします。あらためて主イエスの思いを教えられ感謝します。どうか、主の思いを受けとめる者となり、新たな感動をもって聖餐に預かる者とならせてください。また信仰を言い表していない方たちを顧み、共に聖餐に預かる群れにお招きくださるようにお祈りします。
イエス・キリストの御名により祈ります。