クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書 ルカ 6:1〜11
メッセージ 神の心を知るイエス

 今日は、教会学校のお友だちと一緒に礼拝をしています。教会は神の家族だと聖書に書かれています。小さい人からおじいさんやおばあさんまで、みんな神の家族です。みんなで一緒に礼拝したいねって考えて、今日、それが実現しました。今日は、小さいお友だちにもできるだけ分かるようにお話ししたいと思っています。


 今日の聖書には、二種類の人たちが出てきます。最初の人たちは、

  • 神様の教えを一生懸命に守ろうと努力していて自分たちは立派だと思っている人たちです。
  • 自分たちは、神様の教えをきちんと守っているという自信を持っていて、神様はきっと自分たちのことを喜んでくださっていると思っているのです。
  • 今日の聖書で「律法学者たち」とか「ファリサイ派の人々」と言われている人たちです。
  • 律法学者とかファリサイ派と呼ばれる人々は、神様の教えを守っていない人たちを軽蔑していました。神様の教えを守っていない人たちはだめな人たち、どうしようもない人たちと見下していました。そして、そんな人たちとはつきあいたくないと考えていました。


 二番目の人はイエス様です。

  • 律法学者とかファリサイ派からだめな人と見下されていた人たちとイエス様は友達になって、一緒に食事をしたりお話をしたりしていました。また神様のことを教えたりなさいました。


 自分たちを立派だと考えている律法学者とかファリサイ派の人たちもイエス様も、神様のことを他の人たちに教えていました。自分たちを立派だと考えている律法学者とかファリサイ派の人たちは、イエス様がだめな人たちとつきあっているので、イエス様は神様のことを話しているけど、間違っていると考えていました。何かきっかけがあれば、イエスは、間違ったことを教えている、と悪口を言いたかったのです。


 そこで今日の聖書です。6節に「またほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた」とあります。今教会の礼拝堂で、僕がお話ししているように、イエスもお話をしていたのです。そこに右手が萎えた人がいたとあります。右手が使えないのです。字が書けないし、物を持つこともできないし、とても不便です。

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエス安息日に病気を癒やされるかどうか、注目していた」

あります。これがどういうことなのかを説明しますね。安息日というのは、仕事を休む日です。今で言えば日曜日のことですね。イエス様はユダヤ人です。ユダヤの人たちは、土曜日が安息日でした。日月火と数えていくと土曜日は七日目です。一週間の七日目です。


なぜ、七日目に仕事をしない日にしたのかというと、聖書の最初に、神様が世界をつくったという話が書かれています。神様は六日間で世界を造り、七日目は休まれ、七日目を祝福したというのです。七日目の日が素晴らしい日となるように、と神様はおっしゃったのです。そこで神様はこう言われます。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。安息日を特別な日としなさいというのです。神様を礼拝する日としなさいというのです。だから、ユダヤの人たちは七日目は仕事をしないのです。仕事をしない代わりに神様を礼拝するのです。


神様は七日目を祝福しました。神様は礼拝をする人たちを祝福されるんです。ユダヤの人たちは、神様を礼拝し、神様から祝福を受けるために、七日目、つまり安息日は仕事をしないのです。仕事をすると体を使いますね。だから体を使うことは仕事をすることになると律法学者やファリサイ派の人たちは考えました。病気を治すことも仕事をすることと考えられました。


「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエス安息日に病気を癒やされるかどうか、注目していた」。イエス様が右手の悪い人を直せば、神様の教えを破ることになる、そうすれば、イエス様は神様について教えているけど、実は間違ったことを教えていると宣伝することができるのです。


エス様も会堂で教えておられる時、右手が使えないで不便を感じている人がいることを知っていました。話が終わったら手を治してあげようと考えていました。手が治ればきっと喜んでくれるし、元気に生きていくことができるようになるなと考えたのです。


エス様は一人一人の人間のことを大切に考えてくださるのです。立派な人だけを大切にするのではなくて、誰をも大切に考えてくださいます。わたしなんかだめな人間だと思っている人でも、イエス様は大切に考えてくださるし、愛してくださいます。もちろんあなたのことも大切に考えてくださっていますよ。


 イエス様は、律法学者やファリサイ派の人たちが、イエス様のことを悪く言いたいと考えているのを知ってはっきり言いました。「安息日にしてもいいことは何か。善いことを行うことか。悪いことを行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。善いことをして人の命を救うことを、仕事をしてはいけないという安息日にしてもよいのかどうか、を聞いたのです。病気を治すことは仕事をしてはいけないという神様の教えに背くことになるのかどうか、質問したのです。


 律法学者たちは心の中で考えているのです。手の悪い人の手を明日治せばいいのに。今日は安息日で仕事をしてはいけないのだから、明日にすればいいのに。でもイエス様は、今、治してあげたいのです。善いことをなぜ明日まで延ばす必要があるのとイエス様は考えるのです。明日治せばよいのか、今治すのがよいのか、神様はどちらを喜ばれるのでしょうか。


 「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪いことを行うことか」。病気を治すのはよいことであり、今日直さないで、明日まで待つのは悪いことだとイエス様は考えておられるのです。皆さんはどう思いますか。


 イエス様が質問されても律法学者たちは答えませんでした。答えは明らかです。今治すのがいいに決まっています。そうすると自分たちの考えと合いません。だから答えませんでした。


 律法学者たちにとって、手の悪い人はどうだっていいんです。自分には関係がありません。手を治すなら、明日にすればいいじゃないか、と平気で言えるんです。しかしイエス様は、手が使えないのはかわいそうだなと思いやりの気持ちを持っておられるのです。だから今日、いや今、直してあげたいと言うんです。
エス様は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」という考えです。手の悪い人から見れば、早く直してもらいたいですよね。


 神様は安息日には仕事をしてはいけないと教えました。それは何のためかというと、神様を礼拝し、神様から祝福を受けるためでした。この手の悪い人からすれば、今神様を礼拝している時に、イエス様から手を治してもらえれば、それは本当に神様の祝福です。仕事をしてはいけないと命じる神様のお心は、神様を礼拝して欲しい、礼拝する人を祝福しようというお心です。


 律法学者たちは、仕事をしてはいけないという教えを守っているぞ、自分たちは立派なんだと考えていますが、それは神様のお心から離れているのです。


 仕事をしてはいけないと命じられているから、仕事はしてはいけないのだと考える律法学者たちは、安息日は、神様の祝福を受ける日であることを忘れているのです。だから神様の祝福を必要としている人がいるのに、それを邪魔するのです。イエス様こそ、神様のお心を知っている人です。


 私たちは、一週間の七日目ではなく、最初の日を安息日として仕事をしないで神様を礼拝します。それは十字架で亡くなったイエス様が日曜日の朝に復活したからです。私たちはイエスが復活された日曜日に神様を礼拝します。神様は礼拝をする人を祝福しようとなさっている、そのことを信じ、私たちは日曜日に礼拝をしています。そしてこれからも礼拝をします。お祈りします。


祈り
 天の父なる神様。神様を礼拝すること、それは神様から祝福得お受け取ることだと教えられました。日曜日は仕事を休み、礼拝をする日だと教えられて感謝します。私たちも、神様を礼拝し、神様から祝福を受けて、人生を生きていくことができますように導いてください。神様が私たちを祝福し、私たちを幸せにしてくださる方であることを教えてください。ここに集った教会学校のお友だちやお友だちのお父さん、お母さんを祝福してください。お友だちの家庭を祝福してください。イエス・キリストの御名により祈ります。