クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書 ルカ 6章12〜16節
説教 選ばれる恵み


 今日は説教題を「選ばれることの恵み」とつけました。ご自分が何かに選ばれてうれしかった、選ばれて光栄に思ったという経験があなたにありますか。学校で学級委員に選ばれたとか、野球チームの正選手に選ばれたとか、色々な経験があることと思います。選ばれた結果、人生が変わる、そういう経験をする人がいます。町を歩いていた若い女性が「モデルになりませんか」と声をかけられてモデルになる、さらには俳優になる、という具合に選ばれることがその人の人生をつくる、そういうことがありますね。夏には高校野球が甲子園で開催されますが、プロ野球のスカウトと呼ばれる人たちは、自分のチームに入れたいと思う選手がいるかどうか、チェックしています。スカウトの目に留まればプロ野球の選手になる道が開かれます。

 私たちも「選ばれる」という経験を何回も経験しています。高校受験、大学受験で合格するということは「選ばれた」ということです。選ばれるということは、基本的にうれしいこと、喜ばしいことです。信仰を持つには自分の決心が必要に思えますが、別な見方をすると神様に選ばれていることを信じることだと言うこともできます。信仰に入る決断がどのように与えられるのか人によって違うと思います。自分が教会に来ているのは神様に選ばれているからだと考えることは、信仰に入るために大切なことのように思います。自分が納得するから信じるという面はありますが、神様に選ばれていることを喜んで信仰に入るということもあるのではないでしょうか。

 今日の聖書で、主イエスは弟子たちの中から12人を選び、使徒と名付けました。使徒というのは、ギリシャ語では、派遣される人、遣わされる人という意味です。
特に福音を伝えるために派遣される人の意味です。大事な働きのために選ばれるなんて、大変だなあと思うこともありますし、だからこそ光栄だと思うこともあります。

「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」。

 主イエスは、使徒を選ぶために徹夜で祈られました。夜通し祈る、簡単なことではありません。しかし、時にそのように祈ることが私どもにもあります。切羽詰まって祈らざるを得ないことがあり、祈っても祈っても、なかなか平安になれずに祈り続けるという経験をされた方もおられると思います。主イエスは徹夜して何を祈ったのでしょうか。12人の使徒を選ぶために祈ったのです。誰を選んだら良いのか祈ったのです。徹夜をするほど時間がかかったのはなぜなのでしょうか。


 一つ考えられることは、弟子の一人にイスカリオテのユダという人物がいます。彼は後に主イエスを裏切る人物です。主は、ユダが裏切ることを前もって知っておられたようです。いつから知っていたのか、それは分かりません。徹夜の祈りの中で、このユダを使徒にするのかどうか、祈っていたかもしれません。ペトロの裏切りについても、主イエスは前もって知っていました。ペトロのことも祈ったかもしれません。何を祈ったのか、実際には私たちには分かりません。

  • 神の御心に適う選びができるように祈られたことと思います。
  • あるいは、選んだ使徒たちが、その働きを行えるように祈られたのかもしれません。選ばれた弟子たちは主イエス祈りに支えられるのです。


 神の選びということを考える時、人間の側に選ばれる資格、選ばれる理由があるのかどうかが問題になります。将来自分を裏切るものを使徒に選んでいいのか、主イエスは考えられたと思います。人間の側に選ばれる資格、選ばれる理由があるとするなら、イスカリオテのユダ使徒に選ぶわけにはいきません。


 私どもの教会では、教会の運営を担う長老の選挙を行っています。長老に選出された人が「私に長老になる資格があるのだろうか」と言って、選ばれたことに戸惑いを覚えることがあります。人間の側に選ばれる資格があって選ばれるのか、それとも神は資格など考えずに、選びたい人を選ばれるのか。どちらでしょうか。聖書を読むと、神が選びたいものを選んでおられることが分かります。ユダヤ人は選民、神に選ばれた民であると言われます。聖書ではユダヤ人という言葉より、イスラエル人という言葉が多く使われていますが、彼らが神の民に選ばれたことについて聖書はこう語っています。旧約聖書申命記7章にこうあります。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(7:6)。

 神がイスラエルの民を選んだことが語られています。次に、

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」

とあり、イスラエルの民に選ばれる資格があったのではないと書かれています。そして

「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。

 イスラエルに対する愛の故に、イスラエルの先祖たちに誓われた誓いの故に、イスラエルを選んだというのです。ですから、神の選びは、神の愛から出たものであり、神の恵みによる選びと言うことができます。


先ほども申し上げましたが、私どもが経験する神の選びの一つの例は、長老の選びです。長老に選ばれた方が、「私にはそんな資格がない」と言われることがあります。資格の有無を言うのなら、誰にもそんな資格はありません。長老の選び、それは神の愛から出た選びであると私どもは受けとめます。神の愛から出た神の選びです。それは恵みの選びです。自分から手に入れることのできないものなので恵みの選びといいます。私たちにできることは、その選びに応答することです。長老の働きをするように神から呼びかけられたので、それに応答して務めを果たすのです。ただそれだけのことです。応答をするからには誠実に責任を持って応答することは神様が期待されていると思います。


 ここに選ぶ神とその選びに応答するという人間の間に交わりが生じます。神に祈りつつ、長老の務めを果たしていくのです。牧師もそうです。神の呼びかけを心で聞きます。神の言葉を語る資格があるなどと誰が言えるでしょうか。神の言葉を語るように呼びかけられ、それに応答するだけです。自分にその資格があるなどとはどの牧師も考えていません。神の呼びかけを神の愛から出た恵みの呼びかけと受けとめ、喜んで、誠実に、精一杯応答することだけを考えています。


 そして信仰者になること、クリスチャンになることもまた、神の選びによることだと主イエスご自身が述べています。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。

 主イエスによって12使徒とされた弟子たちは、主イエスが死んで復活し天にあげられたあと、イエス・キリストを宣べ伝え、福音を宣べ伝えるようになりますが、彼らも自分たちにその資格があるから選ばれたとは思っていなかったでしょう。彼らは皆、主イエスを見捨ててしまった経験があります。神の選びは恵みの選び、神の愛による選びです。

  • あなたは神に選ばれ、信仰に入るように招きを受けているのです。
  • あなたは神に選ばれ、信仰者になったのです。
  • あなたは神に選ばれ、長老になったのです。


 そもそも神はなぜ、私ども人間を選ばれるのでしょうか。なぜ、私どもは神の選びに答えようとするのでしょうか。選びに答える、それは神を信じることに他なりません。神の選びの目的は、神との交わりです。神は私どもを神との交わりに生きるように選び、私どもも神との交わりに生きるように、その選びに答えるのです。結婚というのは、わかりやすいたとえになります。


 結婚というのは、お互いに選び、選ばれることによって成立すると言ってよいのではないでしょうか。男性は一人の女性を選んで結婚の申し込みをしますが、その女性から、選ばれて結婚が成立します。女性も選ばれてプロポーズをされますが、その男性を選ぶことによって結婚が成立します。


 私どもが信仰者になる時、自分が決心して信仰に入るように思えます。確かに私どもはキリストを救い主と信じるという決断をして信仰に入ります。しかし、私どもの決心の前に神の選びがあるのです。


 皆さんが最初教会に行ったのはどんなきっかけだったでしょうか。その時すでに神の選びがあったのではないでしょうか。

  • 友人に誘われて教会に行ったのなら、その友人を通して神の選びがあったのです。
  • 親がクリスチャンだったのなら、神は親を通して、私どもを選んでくださっているのです。
  • 通った学校がミッションスクールだったのなら、その学校を通して、選んでくださっているのです。
  • 誰にも誘われずに、自分から教会に行った人もおられるでしょう。なぜ、教会に行きたいと思ったのでしょうか。行きたいと思う、そこにすでに神の働きかけ、選びがあったと言うことができるでしょう。あなたは神に選ばれて教会に来ているのです。


 神の選びの目的は、神との交わりであると言われても、戸惑われる方もおられるでしょうね。信仰に入ることは考えているが、神との交わりに生きることなんて考えていないという方もおられるでしょうし、すでに信仰を得ている方でも、神との交わりに生きるのが信仰であるという意識が少ない方もおられるかもしれません。


 私どもは神に祈ります。聖書を読んで神様のみ心を知ろうとします。困った時には神様に助けを期待します。意識はしていなくても、神との交わりに生きているのですはないでしょうか。信仰が進むとは、神との交わりが深まることと言うことができます。


 忘れてはならないのは、どのような神が私どもを選ぶのかということです。イスラエルは神に選ばれ、神の宝の民とされました。その神はどんな神かというと、奴隷状態にあったイスラエルの民を奴隷の苦しみから解放した神でした。その神から、イスラエルは神の宝の民として選ばれました。そしてその選びの目的について神はこう言います。

「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる」(申命記7:9〜10)。

 イスラエルの民が、神を信頼すること、そして神を愛し、神の戒めを守り、神の慈しみの注ぎを受けること、それが神の選びの目的でした。神が誰であり、選びの目的が何であるかを知ることは大切です。

 主イエスは12人の弟子を使徒に選びました。それは彼らに福音を宣べ伝えさせるためでした。全世界に福音を宣べ伝えさせるために、12人を選びました。彼らは主イエスが十字架につけられた時、主イエスを見捨ててしまいましたが、聖霊の注ぎを受け、力強く主イエスを宣べ伝える者とされました。彼らの働きが出発点となり、今では世界中に教会が存在するようになりました。


 そして私どもを選ぶ神は、イスラエルを選ぶ神と同じ神です。しかもこの神は主イエスを救い主としてこの世に遣わされました。これについて聖書はこう述べています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

 神の選びの第一目的は、私どもが永遠の命を得ることにあります。私どもを選ぶ神は、主イエスを十字架にお渡しになった神です。私どもを救う神でもある主イエスは、私どものために自ら十字架で死んでくださった方です。私どもの罪を赦し、私どもを友と呼び、私どもの人生を共にすることを喜びとされる方です。私どもが神に選ばれて生きるとは、罪赦されて生きるということです。主が十字架の死から復活されたことは、私どもが罪から解き放たれて生きると言うことです。


 神が私どもを選ばれたのは神様が私どもを愛してくださったからです。そして神を愛し神に愛され、人を愛し人から愛される歩みをするようにと私どもを選ばれたのです。どのように人を愛して生きるのか、それは様々な形を取るでしょう。そこに一人一人のオンリーワンの人生が開かれることでしょう。そこで神の選びは、私どもの人生を導くという神の意思の表れということができます。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5〜6)。

神は私どもがまっすぐに歩むことができるように導かれるのです。

  • 私どもの生涯は、信仰を杖にして神の国を目指す旅をすることです。
  • 神の国を目指す旅は、神を愛し神に愛され、人を愛し人から愛される歩みです。
  • あるいは私どもが世の光、地の塩として生きる歩みということもできます。
  • あるいは信仰共同体、愛の共同体である教会を築くことということもできます。

 そのようにして私どもは神が与えてくださった命に生かされるのです。神の選びは、私どもの人生を導くという神のご意思の表明です。

「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:3〜4)。

神様に選ばれて生きる幸いが一言で述べられています。祈ります。

祈り
私どもを選び、信仰に導いてくださる父なる神様、あなたの選びを感謝します。あなたの選びを感謝を持って受けとめ、あなたの選びに答えて歩むことができるように導いてください。
特に、あなたを信じようとしている方々に、あなたの選びのご意志をはっきりお示しください。またすでに信仰に生きている者も、信仰に生きるとは、あなたの選びに答えて生きることであることを覚えることができるように導いてください。私たちを選んでくださったあなたの目的に目を留めなければ、私どもの信仰は、偶像礼拝に陥り、自分の造った神を拝むことになりかねません。罪赦されて生きる者として、あなたが私どもに信仰を与えてくださった目的に目を留め、あなたのみ心に沿って生きることができるように励ましてください。一人一人に聖霊の導きを与えてください。イエス・キリストの御名により祈ります。