クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 60代半ばを生きるということ

 先日、NHKBS放送「旅の力」を見た。今回は、日本画家の中島千波さんが旅人である。僕はこの人のことは何も知らない。彼は東京芸術大学日本画科卒業している。番組の中で、卒業後、何を描くのか、苦闘したこと、やがて自分のテーマを見つけたことを話された。花の絵が多い。彼はボタンの原種を見つけに中国の秘境に行くのである。番組では、その様子を描く。中国はボタンの花が多いらしく、交配による様々な品種が生み出されている。それらは、きれいで豪華で、見応えがある。しかし中島さんは、関心を示さない。むしろ原種に関心を示される。飛行機を乗り継ぎ、原種があるという山に行く。そのために、馬に乗り、そして自分で歩く。息をハアハア言わせながら山を登っていく。そして原種のボタンに出会い、写生をする。開花期間は一週間。幸いに開花期間に訪れることができ、原種に出会うことができた。嬉々として花を描く。「食事はどうですか」と案何人から言われても、「それどころではない」と言って、食事はしない。60才半ばで意気軒昂であり、自分の描きたい絵のためにどこまでも行くバイタリティがある。年齢のために、そこに着くためには、バテるといういささか様にならない姿をさらさなければならない。しかし、生き生きととしている姿に共感が湧く。


 田川建三という人がいる。聖書の翻訳を出版している。その序文で以下のように述べている。

 新約聖書は、なんのかんのと言っても、人類の歴史上最重要の遺産の一つである。日本語の読者も、それを正確に理解できる日本語訳でお読みになる権利かあろうというものだ。
 とは言っても、正直な話、新約聖書全体の翻訳をなすにはまず古代ギリシャ語の語学力がしかるべき水準に達していないといけない。私の場合は、その点て、自分の語学力が辛うじて及第点に到達したかな、と思えるようになったのは、六十歳代も半ばになってからである。語学力ばかりは蓄積がものを言う。まして相手は古代の言語であるから、数十年かかって積み上げてきた蓄積がようやくものを言うようになるには、私の遅い歩みでは、六十歳をかなり超えてしまった、ということである。・・・・古代の言語と言っても、それは生きて用いられていた言語である。従って、何か謎解きでもするような感じで、一つ一つひねくって考えてみて、それで現代語に置き換えてみた時に何とかわかったような気がして、ああそうか、そういうことを言っているのか、などとやっているようでは、その生きた感じはとらえられない。ましてや、辞書にのっている訳語を一つ一つ拾ってきて、それを右から左に写して並べたって、訳になるわけがない。原文そのものをすっと読んでみて、何かこう、生きてしゃべっている雰囲気が伝わってくるような、そういう感覚が生じてこないと、どうも語学力とは言えない。そういう感覚が身につくのに、私の遅い足取りでは、六十歳代の半ばになっていた、ということだ。・・・・まだ自分に余命のあるうちに、一人の専門家として担うべき最小限の課題を果さないといけない。

 60代半ばになって聖書を翻訳できる自分になったと述懐している。


 そして僕も60代半ば。いつまで牧師を続けることができるのかと思いながら、しかし、今が一番充実して説教をつくることができていると自分では感じている。説教について学びながらここまで来たが、こうして説教を作ればいいのだということが分かってきたという感じがする。また肉体の衰えや集中できる時間は減ってきたし、自分の死を意識することも以前と比べて多くなってきたし、それ故、神の国を目指す歩みを意識するようになった。内村鑑三がキリストの再臨は、最終真理と述べている。ある程度の年齢になることが再臨信仰に生きるのに必要なのかも知れない。また教会のことで焦らなくなった。自分の願い通りには物事はなかなか動かないし、動くことが良いとも限らない。神の御心がどこにあるかを考えながら、生きることが最善と悟るようにもなった。この年齢を生きることを喜び感謝すべきなのだろうと思う。