朝のNHKの連続ドラマ「梅ちゃん先生」で集団就職で町工場に就職した少年が故郷懐かしさに上野駅に行く。「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」。
僕は石川啄木が好きだ。僕は東京育ちなので故郷はない。金沢に住んでいれば東京が故郷なのかも知れないが、その余りの変貌は故郷とは到底思えない。故郷というのは昔も今も変わらないというイメージがある。だから、「ふるさとの山に向ひて 言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」は実感できない。しかし、自然の中に入ると僕は安心してくつろぐ。で今日は、医王の里に行って昼食をとった。そよぐ風が身に涼しい。
僕の好きな啄木の歌はこれである。十年近く使った聖書の表紙の裏にある時、この歌を書いた。その聖書は、今はもう使い古して処分した。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ(い)来て 妻としたしむ
大学生の時に、学校は紛争で荒れた。1970年頃である。毎日のようにクラス討論が行われた。意見を戦わす級友を見て、僕は劣等感を抱いた。自分たちが置かれている現実に直面し、どう考えるか、どう生きるか、の議論がなされた。今思えば、それは大学の置かれた「現実」であり、必ずしも自分の「現実」ではないのだが。だから僕は自分のこととして受けとめることが困難であった。それはともかく議論を聞きながら劣等感を抱いた。それは僕が劣等感を抱いた最初の出来事であった。牧師になってからも、劣等感を感じることが幾たびもあった。いい説教をする者、神学理解が深い者、論理的にきちんと話をする者、話が上手な者、教団・教区のあり方に深い関心を寄せる者、物事を深く考える者、聖書をよく知っている信徒、祈りの深い人。自分が小さな、小さな人間に思えた。幸いなことに信仰によって、劣等感からは自由にされた。自分が色々な面で他人と比べれば劣っている点があることは認めるが、だからといって自己卑下をしたり、自己評価を低くして悩むことはなくなった。自分に劣る点があることと自分の価値は関係がない。それはともかくとして、啄木の歌を心が喜ぶ。でも花を買ったことはない。
10年以上前になるが、金沢元町教会にに赴任し、牧師就任式が行われた。式の後で挨拶をした。その中で僕は妻に対する感謝を述べた。妻はいつも、僕のいい面を見ようとしてくれるので励まされると。