クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 北陸学院中学での説教

聖書 創世記 12:1〜4
説教 神との出会い


→今月の礼拝のテーマは「出会う」です。
私は牧師ですので、<神との出会い>についてお話ししたいと思います。
最初に、神と出会うことの大切さを簡単にお話しします。
次に、いかにして神と出会うかをお話しします。


→最初に、神との出会いの重要性について。
神と出会わないとあなたは、人生で迷子になります。
普通迷子というと、それは子供のことです。
遊園地に行ったり、デパートに行ったり、人混みの中に行ったとき、
親から離れてしまい、子供が迷子になります。
迷子となった子供は、どちらに行ったらいいのか分からず、
自分がどうしていいのか分からず、
親がいないので不安になって泣いてしまいます。


→神と出会わないと、あなたは人生で迷子になってしまいます。
つまり、生きる目的が分からず、生きる意味が分からず、
何を大切にして生きるべきかが分からずに
人生を生きていくことになります。
神さまは天の父です。
神さまは、天の父として私たちに生きる目的を示し、
何を大切にして生きるべきかを教えてくださいます。
神さまと出会う人は、安心して、確信をもって生きることができます。
確かな生きる喜びを得ることができます。


→神なんか信じなくてもいい、と言う人もいます。
その人たちはこう言います。
生きる目的、それは自分で決めればいいんだ。
何を大切にするのか、それも自分で決めればいいんだ。
人から指図されず、自分で決めればいいんだ、と言うわけです。
これも一つの考え方です。
何でも自分で決めなければならない、
それって迷子ではありませんか?
天のお父さんがいないので、人生で迷子になってしまいます。
迷子になった子供は泣きます。
大人は泣くわけにはいきません。
頑張って生きていきます。
自分は何のために生きるのか、
何を大切にして生きるべきか、自分で決めるんです。
それでいいんだ、という確信がなくても、
自分で決めて生きていくんです。


→僕は若いとき、神を信じていませんでした。
生きる目的は自分で探しました。
何を大切にして生きたらいいのか、それは分かりませんでした。
生き甲斐のある人生を生きていきたい、それが僕の願いでした。
今思うと、人生で迷子になっていたと思います。


→人間が考えることって、時と場合によって変わるのです。
自分が考える生きる目的、
何を大切にして生きるか、それは変わりうるのです。
僕は神と出会い、よかったと思っています。
人の生きる目的、何が大切にして生きたらよいのか、なのか、神さまが教えてくれました。
それを知って、安心して、確信をもって、喜んで生きることができるようになりました。
迷わなくなりました。


→皆さん、たとえば親に聞いてみてください。
何のために生きているのか。
生きる上で、何が一番大切なのかと。


→いいですか皆さん、大切にすべきことは色々あります。
一番大切にすべきことを大切にしないと
一番大切にすべきことを大切にしないで生きることになります。
その場合、大きな損失が起きることになります。
ですから、神さまと出会うことってとても大切だと僕は思っています。
若い皆さんに、神さまとの出会いを求めて欲しいと思います。


→次に、神さまとどうしたら出会うことができるかについてお話しします。
皆さんが北陸学院に入学し、一つのクラスに属し、
そこでクラスメートと出会います。
友だちとの出会いが起きます。
皆さんが誰を友だちとするか、そこで大切なのは、言葉だと思います。
語る言葉は、その人がどんな人かを表します。
その人がどんなことを言うのか、どんな考えを持っているのか。
その人がどんな行動をしているのか。
その人がどんな人なのかを見て、私たちは友だちを選んでいるのではないでしょうか。


→今はインターネットの時代です。
出会い系サイトというのがあって、相手の顔を知らなくても、
メールや掲示板で<言葉のやりとり>をして人と出会います。
<言葉>が、人との出会いで欠かすことができません。


→僕は高校の時、電車で通学していました。
毎日、同じ電車に乗ります。
すると向こうに気になる女子高校生がいます。
ちらちらっと僕は彼女を見ます。
すると彼女も、こちらを時々見ます。
僕のこと、関心を持っているのか、と期待します。
そして同じ駅で降ります。
でも、それだけでは出会いは起きません。
彼女に話しかけ、話をすることによって出会いが起きます。
(女子中学生が笑っているのが見えました)


→神との出会いも又、言葉を通して生きるのです。
神さまは、姿が見えません。
神さまの声が直接聞こえてくるわけでもありません。
祈りして願いがかなったとしても、それで神さまとの出会いが起きたとは言えません。
神さまとの出会いは、言葉を通しておきます。
今日の聖書にこうあります。
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」。
これを読んで私たちは、神さまがアブラムに語ったことが分かります。
しかしアブラムはどうだったのでしょうか。
突然、「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」
という声を聞いて、それが神だとどうして分かったのでしょうか。
アブラムは最初、それが神の言葉だとは分からなかったと思います。
でも彼はその言葉に従いました。
その後彼は何度も自分に語りかける声を聞きます。
そうしていくうちに、自分に語りかけたのが神であると知るようになったのだと思います。


→僕はある時から教会に通うようになりました。
礼拝で説教を聞き続けました。
自分では分からずにいましたが、僕は神の語りかけを聞いていたのです。
神さまは、説教を通し私たちに語りかけておられます。
こうして皆さんが説教を聞くとき、
説教者を通して語られる神さまの声を聞いているのです。
でもそれが、神さまの声だとはなかなかわからないかも知れません。
しかし説教を聞き続けていくとき、
ある時、神さまが自分に語りかけておられることに気づきます。


→今、既に神さまはあなたを見つけ、あなたに語りかけています。
そして説教を聞き続けていくとき、
ある時、あなたは神さまが自分に語りかけておられることに気づきます。
そしてその時、あなたは神さまに出会います。
そしてあなたは、人生で迷子にならず、
確かな足取りで人生を生きていくことができるようになります。
皆さんが、教会の礼拝にも出席し、
神さまと出会うことを願います。
皆さんが、人生で迷子にならず、確かな足取りで人生を生きていくことを願います。
祈ります。


祈り
神さまとの出会いってどんな風にして起きるのか、
不思議に思えます。
神さまとの出会いは、言葉を通して起きることを教えられ感謝します。
説教を通して、
私たちの心に語りかけるあなたの声を聞くことができるように導いてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。