クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 HEROというドラマがあります。木村拓哉が主演のドラマです。彼は検事を演じています。昨日の放送を見て、思ったことがあります。


 実は今『説教者を問う』(加藤常昭著)を読んでいます。この本の最初に神学生が行った説教に対して、牧師たちが色々批判をします。その中で、人生経験が足りないという批判が出たそうです。パウロはテモテに、「あなたは若いからといって軽んじられてはいけない」と注意を与えています。若い牧師が説教者として重んじられるとしたら、それは何によってなのか。人生経験が足りないから、という批判を無条件に受けなければならないのでしょうか。僕もかつて言われました。「世の中のことを知らない」。


 キムタク演じる検事の姿を見るとき、この問に対する答えが与えているような気がした。キムタクが演じる久利生(くりゅう)検事は、中卒です。若いです。でも同僚の検事たちは一目置いているように思えます。彼は、自分が感じた疑問を見過ごしにせず、徹底的に解明します。そこから事件の真相が見えてきます。真相究明のために、現場に出かけることをいといません。他の検事たちは、現場に足を運ぶことはせず、容疑者の取り調べだけです。徹底的に真相を究明する姿勢は年齢に関係ありません。そこに彼の検事としての姿勢が現れています。職務に忠実であることは年齢に関係ありません。単に忠実というより、彼は使命に生きているといえます。お勤めではありません。


 若い牧師が、尊敬される説教者になるとするなら、それは何によるのでしょうか。説教者は、教会員の模範者となるからです。パウロは言います。私がキリストに従うように、あなたがたはわたしに従いなさい。私を模範としなさいとパウロは語ります。説教者は模範になることが必要なのだと思います。


 説教者は、福音に生きる。それが模範になります。自分の語った言葉に責任を持ち、それに従う。これは年齢に関係ありません。人生経験が多くても、模範になれない年老いた牧師もいるでしょう。誰が言ったのか覚えていませんが、心に残る言葉があります。「自分が実践できないことを説教で教えるってのは、・・・」。この「・・・・」には、<辛いね>、<しんどいね>、<大変だよね>と同意を促す響きが伴います。


 この言葉に僕は違和感を感じます。自分は聖書の教えに従うことができないと決めつける、そこにはやはり誠意がないと思います。聖書の言葉に対して葛藤をするという大切な営みを避けているような気がします。


 ドラマの中で、久利生検事が言う台詞がいいです。

まともに生きていねえ奴が、まともに生きている奴を非難するのはおかしいだろ。


人間は、その人の真価を現すときがあり、人がそれを認めるときがあります。そんなことを思わさせるドラマでした。僕の真価は?