クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

わが内に生きておられるキリスト

ガラテヤ 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

 このパウロの告白を私は自分の告白にしたいと考えてきました。パウロはどんな気持ちでこの告白をしたのでしょうか。

 パウロは最初クリスチャンを迫害していました。神に対する熱心さからです。そしてダマスコ途上で復活されたイエス・キリストに出会います。その結果、彼の人生は一変します。キリストを宣べ伝える使命を与えられました。キリストは救い主、この方を宣べ伝えることが彼の使命となりました。

 キリストに出会う以前のパウロはファリサイ派の一員でした。そして律法を守るという点では自分は非のうちどころのない者と自負していました。彼は信仰者としての自分の誇りを抱いて生きてきました。しかしキリストと出会い、自分のために生きるのではなく、キリストを宣べ伝えるために生きる者とされました。自分のために生きるものではなくなった彼は、「生きているのは、もはやわたしではありません」と告白します。キリストを宣べ伝えることが彼の使命です。キリストこそ、彼の生きる目的です。

フィリピ 1:21
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

 今や信仰熱心なパウロが生きているのではなく、キリストが彼を生かしています。「キリストがわたしの内に生きておられるのです」との告白がここに生まれたと考えることができます。キリストが自分の内におられるから、キリストのために生きる者とされたと考えることができます。

 私は若いとき、むなしさの中にいて、どうしたら空しさから救われるのか、解放されるのか、もがいていました。何を手に入れたら、何をしたら空しさから解放され、充足感を得ることができるのか模索しました。そんな時、ある本を読んだのです。本の名前は忘れましたが、キリストは自分の命を犠牲にしたと書いてありました。それを読んだとき、空しさからの解放は、得ることではなく、与えることにあるのではないかと思いました。自分を犠牲にしてささげることは、普通なかなかできません。損をするからです。

 やがて教会に行き、信仰を得ました。さらには牧師へと導かれました。そして空しさからの解放を得ました。牧師となったときの年収は、サラリーマン時代の1/3でした。でも後悔はありませんでした。私もキリストによって生かされ、キリストを宣べ伝えるという使命を与えられ、充足感を持つ歩みに踏み出せました。

 それでは私はパウロのように「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言えるのかといえば、それはまだです。牧師になった当初は説教の準備に追われ、キリストがわたしの内に生きておられることなど考えもしませんでしたし、実感もできませんでした。

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頭だけ出しているタンポポ 2022.2.20