若い時に『キリスト教の本質』(フォイエルバッハ)を読みました。といってもむずかしくて途中で読むのをやめました。神は人間が造りだしたものであるというような主張が印象に残りました。あそこに赤線を引いたという記憶が残っています。
また宗教というのは、人間が作り出したものだとだれかが書いていたような記憶もあります。死を越える希望が人間には必要なので、それで人は宗教を生み出したのだと。それで私は信仰を持つときには、それが信じるに足る根拠がなければならないと考えました。
仏教にしてもキリスト教にしても、死後の世界のあることを教えています。それは本当なのか、と考えたとき、仏教を選択できませんでした。聖書はキリストが復活したと証言しています。キリストの復活は歴史的な出来事です。これは信頼に足ると考えました。それで信仰を決断したわけではありませんが、信じるに足る根拠はあると考えました。
信仰者になってからも心の底にキリスト教に対して、信じて大丈夫なのか、という問いを持ち続けてきました。意識的というより、この問いが心の中にわいてくるのです。信仰者になり牧師にもなったのに、こんな問いを持っていいのかと思われるかもしれません。しかし信仰者であることも事実、そのような問いを持つのも事実なのです。
しばらく前から、聖書という書物の存在、その内容を味わうにつれ、人間が作り出したものとは思えなくなりました。神のご意志があると考えるようになりました。それと関連しますが、神学の追求が時代を超えてなされていることも信じるに足る根拠と考えるようになりました。最近『キリスト教教義学 上』(近藤勝彦著)を読んでいますが、その思いを強くしています。
そして最近は、讃美歌あるいはゴスペル、ワーシップソングに親しむ中で、信仰者が生活の中で賛美の歌を生み出し続けているのも信じるに足る根拠だと考えるようになりました。賛美の歌の言葉に目が向きます。最近いつも黙想している讃美歌の言葉があります。
讃美歌142番は
さかえの主イエスの 十字架をあおげば
世のとみほまれは 塵にぞひとしき・・・
英語の原詩では
When I survey the wonderous cross
on which the Prince of Glory died
・・・・
私が、その上で栄光の君が死んだ
素晴らしい十字架を探求するとき
「さかえの主」をどのようにイメージするのか、
Prince of Glory(栄光の君)をどう理解するのか。
この黙想を深めることは私にとってキリスト教を信じるに足る新たな根拠を与えてくれるのではないかと期待するこの頃です。