クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 先日、フランスの週刊新聞シャルリエブドがテロリストに襲撃され、さらにスーパー立てこもり事件が起きて、17人がテロの犠牲になったとのことです。新聞ではしばらく、表現の自由か宗教の冒とくか、でこの問題について多くの人がそれぞれの意見を述べていました。この問題を聖書的にどう考えたらよいのでしょうか。


 表現の自由は民主主義社会では基本的な人権です。これは歴史の中で人類が勝ち取ってきた大切な権利との思いがフランス人には強いようです。そして権力や権威、神に対する風刺を行うことも表現の自由言論の自由の一つの現れとして理解するフランス文化が形成されてきた歴史があるようです。


 他方で、風刺が他者を侮辱する可能性があります。今回はイスラム教徒の人たちが信仰を侮辱されたと受けとめています。他者の思いに共感をするという観点からすれば、今回の風刺は行き過ぎとなります。シャルリエブドが掲載した預言者ムハンマドの表紙の絵が、北陸中日新聞には掲載され、朝日新聞は掲載を見送りました。朝日新聞は、

表現の自由は最大限尊重する。特定の宗教や民族への侮辱を含む表現かどうか、公序良俗に著しく反する表現かどうかなどを踏まえて判断している」

との理由で見送ったようです。北陸中日新聞

イスラム教を侮辱する意図はありません。『表現の自由か、宗教の冒とくか』と提起されている問題の判断材料を読者に提供するために掲載しました」

と掲載理由を述べています。ここには読者の知る権利に対する配慮あります。


 表現の自由か宗教の冒とくか。表現する側からすると自由は<権利>となります。他方、冒とくされたと感じる側への<共感>があります。そこでどちらに自分は立つかとなります。権利か共感か。どちらも大切なものです。フランスは、その歴史的歩みの中で風刺を文化とする伝統を築いてきました。そのフランスの文化に共感して表現の自由を採るという立場もあります。

「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)。

 旧約のレビ記には、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいとあります。聖書は、権利を主張するよりも共感を大切にするように教えていると私は受けとめます。どちらも大切ですが、どちらかを選択しなければならない場合は、共感を選ぶのが聖書的と言えるのではないでしょうか。


 現代は、多様な価値観を持つ人たちが共に生きる時代です。フランスにもイスラム系の人が沢山住んでいます。歴史や文化、価値観の異なる人たちが一つ所に住んでいるのなら、共感を大切にしないと対立が生じることになります。そして現代は、対立から憎しみが生まれ、戦いが生まれ、多くの人の命が脅かされている時代です。


 パウロは偶像に備えられた肉を食べていいかどうかという問題を考えたとき、まず、偶像なる神は存在しないから、食べても差し支えないと考えます。つまり食べる自由があるとします。しかし偶像になじんだ生活をしてきた信仰者の場合は、偶像に備えられた肉を食べることにためらいを感じ、食べれば罪を犯すことになるのではないかと考えます。そこで自分には食べる自由があるけど、その人たちを戸惑わせることがないように、私は偶像に備えられた肉は食べないとパウロは判断しました。この聖書の例も、他者への共感を伝え、自分に与えられた自由を自制することのできる人が、真に自由に生きていることを教えているように思います。