クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

大河の一滴

 夜中に目が覚めました。すぐに眠れないみたいなので、考え事をしました。最近『プロテスタンティズム』(深井智朗著)を読みました。著者は色んな人物から引用しているのですが、どの人物に対してもいつからいつまで生きたのかを書いています。たとえば教皇レオ10世(1475〜1521)。この本の内容とは別にこのように誰が、いつからいつまで生きた、という記述に目が留まりました。また新聞やテレビなので有名人の訃報が伝えられます。わたしの意識の中では、人間は皆、死んでいく、とのささやきみたいなものが渦巻くような感じがあります。


 作家の五木寛之氏は、『大河の一滴』という本の中でこう書いています。

いつも心に響いてくる呪文のような言葉がある。それは「大河の一滴」という、じつに月並みな文句だ。「人はみな大河の一滴」。それは小さな一滴の水の粒にすぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだと、川の水を眺めながら私にはごく自然にそう感じられるのだった。


 毎日耳にする訃報は、私たちの存在は大河の一滴に過ぎないと語りかけてきます。底に空しさを秘めた心には共感を呼び起こす言葉です。でも寝床の中の僕の心には「召し」という言葉がありました。人は「生きるように」との召し(神の呼びかけ)によって誕生し、「信仰に生きよ」との召し(呼びかけ)によってキリスト者となり、「私のもとに来なさい」との召しにより、生涯を終えます。私は「福音を伝えなさい」との召し(呼びかけ)により牧師となり、これが生涯の務め、使命となりました。自分の人生は神と共にある人生、神の召しによって始まり、生かされ、終わる人生であることを思いめぐらしました。忘れてはいけないと思い、アイフォンに「召し」とだけ書きました。これを見て、今この文章を書いています。