クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

ヘブライ人への手紙2章1〜4節


(内容)
私たちは聞いたことにいっそう注意を払いましょうと警告がなされています。聞いたこと、それは「これほど大きな救い」(3節)のことです。これほど大きな救いについて無頓着になって、押し流されてしまえば罰をまぬがれることができないと警告がなされます。


(黙想)
「これほど大きな救い」とは何のことでしょうか。4節を見れば、イエス・キリストが与える救いのことです。小さな救い、大きな救い、救いにも色々な救いがあります。借金からの救い、劣等感からの救い、貧困からの救い、独裁政治からの救いなど、色々な救いがあります。「これほど大きな救い」は、これ以上に大きな救いはないという救いです。この救いは、永遠の命を得るという救い、永遠の滅びからの救いということができます。これはイエス・キリストが私たちに与えてくださった救いです。
 誰がこれほど大きな無頓着になるのかと言えば、それは、福音宣教の言葉を聞き、信仰に入った人だと思います。いったん信仰に入りながら迫害(外的)、誘惑(内的)などによって救いに無頓着になることがあるのだと思います。

 ヘブライ人への手紙の3章には、少し具体的に書いてあります。

「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」(3:12)。

「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい」(3:13)。

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない」(3:15)。

「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです」(4:2)。

 信仰者こそ、「これほど大きな救いに対して無頓着になる」危険があることを教えられます。


(聖書に聞く)

☆神が求める私たちの生き方
(警告)聞いたことに注意を払うべきこと。聞いたことに無頓着にならないこと


(神の導き)
祈り

  • 天の父なる神、「これほど大きな救いに無頓着になってはいけない」と教えられます。誰が無頓着になるのでしょうか。それは信仰者です。信仰者が聞いたことに無頓着になります。無頓着で思うことがあります。それは悔い改めです。礼拝の中で罪の告白として詩篇51編が読まれたり、詩編交読で詩編51編が読まれることがあります。姦淫の罪を犯し、殺人の罪を犯したダビデは、自分の罪を悔い改め、「わたしのうちに清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と祈っています。礼拝に集う人は、この詩篇の言葉を口に出しているのですが、この言葉に無頓着になっているのではないかと思わされます。犯した罪を悔い改め、清い心を創造してくださいと祈り、犯した罪を克服することができた感謝と喜びがなかなか聞こえてきません。罪をくり返し犯してしまうのは仕方がないと言っているような祈りがなされます。聖化、潔(きよ)め、に無頓着な状況が教会を支配しているようにさえ思えます。
  • ダビデ祈りをもっと真剣に受けとめたいです。今度の日曜日、礼拝奉仕が与えられています。説教後の祈りの中にこのダビデの言葉を引用して祈りたいと思います。

☆与えられた導き