信仰者は新しく生まれた存在。戸惑いを与える教えかもしれません。信仰者は新しく生まれた存在、これは神さまの約束です。神の約束を信じる、これが聖書の信仰です。今はクリスマスシーズンなので、主イエスの母マリアのことを考えます。
天使がマリアを訪れて言います。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。
これを聞いてマリアは戸惑いました。この挨拶は何なのか、考え込みました。するとさらに天使が言います。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。・・・」。
天使はマリアが身ごもること、その子をイエスと名付けること、その子は特別な人であることを告げました。ここには「神の約束」が語られています。マリアは子を宿すこと、その子は特別な人物になるとの神の約束を聞いたのです。するとマリアは答えます。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。
「どうして、そのようなことがありえましょうか」。マリアは天使が告げたことに対して、そんなことはありえない、と答えたのです。強い否定です。すると天使は、親類のエリサベトが男の子を身ごもっていることを伝え、さらに「神にできないことは何一つない」とマリアに告げます。するとマリアは、
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」
と答えます。神が約束したことが、この身に成りますようにと返事をしたのです。
天使との会話の中でマリアの心は変化していきます。最初は、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と神の約束に対する疑い、否定です。最後は、「お言葉どおり、この身に成りますように」です。ありえないと否定したことを「この身に成りますように」とマリアは肯定的に受けとめたのです。
キリストを信じて洗礼を受ける者は、新しく生まれた者になります。これは神さまの約束です。
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。(テトスへの手紙3章5節)。
洗礼を受けても、自分が新しい人間に生まれ変わったという実感のない者にとって、この約束は戸惑いを与えますし、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と私たちも答えるかもしれません。
マリアは、親類のエリサベトが身ごもったことと「神にはできないことはない」との天使の言葉を受けとめて。「お言葉どおり、この身に成りますように」と応答しました。このマリアの姿は、信仰者の模範です。マリアは私です。私たちも「お言葉どおりこの身に成りますように」と応答することができます。マリアは、天使と会話している間に心が変えられました。変わりました。しかし「あなたは新しく生まれ変わりました」と言われて、すぐに「お言葉どおりこの身に成りますように」と私たちは言えないと思います。新しく生まれ変わることがどういうことかわからないからです。
私たちには知るべき大事なことがあります。信仰とは神の約束を信じることであること、これが大事なことです。イエス・キリストを信じる者は、罪が赦される、これは神の約束です。イエス・キリストを信じる人は永遠の命を与えられる、これも神の約束です。神の約束を信じる、これが私たちの信仰です。アブラハムも、あなたは大いなる国民になるとの神の約束を与えられました。モーセも、神がイスラエルの民をエジプトから救い出し、乳と蜜の流れる地に連れて行くという約束を与えられました。信仰が神の約束を信じることであることが分かると、「お言葉どおり、この身に成りますように」と告白できるように導かれます。
天使があなたに語りかける場面を想像してください。
「おめでとう、恵まれた方。洗礼を受けたあなたは生まれ変わりました。新しく造られた者となりました」。
「どうして、そのようなことがありえましょうか」。
「ペトロを見なさい。パウロを見なさい。主イエスを信じて、彼らも生まれ変わり、主イエスを宣べ伝える働きに従事しました。神にできないことは何一つない」。
「お言葉どおり、この身に成りますように」。
このような応答ができますように。