holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

新しい人間として生きようとすると・・・

 信仰者が新しく生まれた人間として生きようとすると何が起こるのでしょうか。彼はまず御言葉を行おうとします。たとえばエフェソの信徒への手紙には新しい人の生き方としてこんなことが書かれています。

日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。

 夫婦喧嘩をしてお互いにあやまることができず日が暮れてしまいます。まだ信徒の時でしたが、私は夫婦喧嘩をして牧師夫人から「あなたたち元旦礼拝までに仲直りしなさい」と12月31日に電話で言われたことを思い出します。その結果どうしたのは私は忘れましたが、妻によると仲直りはせず、礼拝には別々に行ったとのこと。

労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。

 教会に仕えていたときには、献金依頼が来ても、教会の予算から献金を支出してきました。今、個人宛に献金依頼が来ます。分け与える、そんな余裕はありません、との愚痴が出てきそうになります。

悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

 批判や悪口ならすぐ口から出すことができます。相手に役立つ言葉といっても何を言ってよいかわからないし、何か言ったら、偉そうにとか上から目線だと思われかねないし、との言い訳が出てきそうです。

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

「赦せなくて悩んでいます」との相談に、ある牧師が「そうですよね。赦すってむずかしいですよね」と言ったそうです。おいおい、そんなこと言っていいの、あなたは赦しなさいと教える立場でしょ、と思いました。でも、その悩みにどう答えるのがいいのか、思案してきました。今の僕は「神さまはなぜ赦しを命じるのでしょう。考えてみませんか」と言うつもりです。

 私たちが聖書の言葉に具体的に生きようとすると問題が生じます。素直に従うことができないという問題が。それは煎じ詰めれば、神さまの教えに従いたくないという反抗の罪が現れてくるということです。聖書の教えを知識として頭に蓄えているだけなら起きてこない問題が起きるのです。神に反抗する不信仰が現れてくるのです。新しい人として生きようとすればするほど、私たちは自分の罪を思い知らされるのです。新しい人間になったなどと信じないで、私は罪深い者です、でも神さまは赦してくださるのでありがたいです、と言っている方がどれほど楽なことか。

 昔、ある夜の祈祷会の時、一人の女性が教会を訪ねてきました。韓国の人でした。話す言葉はハングルで理解できません。ハングルを話せる牧師をたまたま知っていたので、彼に連絡をし、彼女の訴えを聞いてもらいました。彼の所に出かけて相談もしました。彼女は観光ビザで日本に来ていて仕事をしていたのです。しかし報酬が約束とちがって少ないので困っている、報酬をちゃんともらえるように助けてくれないか、というのが彼女の訴えでした。

 私の心には、彼女の問題を解決してあげなければいけない、でも大変だ、難しいとの思いでいっぱいでした。第一に、私は話すのが下手ですから交渉にならないことが予想できます。相手の言い分に対して反論する自信がありません。第二に、交渉相手は相手の足もとを見る人間ですから、良識が通じる人ではありません。そんな人に会うなんて気が重くなります。どう考えてもうまくいく筈がありません。

 「君しか助ける人はいないよ」と相談にのった牧師は言いました。僕しかいないのです。勇気を奮い起こして出かけました。話し合いました、相手にもされませんでした。隣人愛の教えが聖書になければと、どれほど思ったことでしょう。愛の薄い自分を思い知らされたことでした。

 彼女は韓国に帰りました。それから2回ほどクリスマスカードを受け取りました。助けにはなりませんでしたが、彼女に寄り添うことができました。寄り添うことができればそれでよいのだ、というのがその時の教訓でした。

 自分の罪を思い知らされたら次にすべきことは明らかです。神に祈ることです。

神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。深い御憐れみをもって

背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い

罪から清めてください。
・・・
神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
詩編51

 

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近所のお寺。閻魔詣でに行くと甘酒が飲めるそうな。