holalaのブログ

隠退(引退)牧師holalaのブログです。

伝道に必要なもの

 伝道というと教会では、様々な集会を計画し未信者の人を教会に集めることを計画します。未信者の人が教会に来るきっかけはあまりないので集会を計画することは大切なことです。ここでは伝道とは、ひとりの人を信仰に導くことと定義します。つまりイエス・キリストを信じるように導くことを指します。すると伝道は伝道集会だけでは不十分であることがわかります。伝道が成功するためには、以下の三つの段階を経る必要があります。

  1. 未信者の人が教会に来ること
  2. 未信者の人が教会の礼拝、集会につながること
  3. 未信者の人が罪を悔い改め、イエスを救い主と告白するようになること

 教会が集会を計画し、教会員が家族知人を誘ったり、チラシを配ったりしてそれを見ることによって、未信者の人が集会に来ます。

 次の課題は、集会に来た人が教会の礼拝に続けて来ることです。集会を計画した時から教会は祈って準備し、集会に来た人が続けて礼拝に来るように祈ります。しかし集会には来ても続けて礼拝に来る人が少ないのが現実であり、ここには大きな課題があります。しつこく誘えばよいというものではありません。

 私自身は知人に誘われ伝道集会に行きました。伝道礼拝の説教者の話を聞いて私は、「話がうますぎる」「信じれば救われるなら苦労しないよ」というものでした。こういう話しは気をつけなければならない、まゆつばものだ、と自分に言いました。続けて礼拝に行く気持ちはありませんでした。

 ところがその日の夜、教会が火事になりました。さいわい早く消火活動がなされ大事に至りませんでした。それでも次の礼拝から、講壇の位置が礼拝堂の後ろに変わりました。教会が火事になったと聞いて、これは何かの因縁だと思い、次の週から礼拝に通うようになりました。私を誘ってくださった方の祈りが聞かれたのだと思います。

 幸いに礼拝に続けて来る人がいたとして、この人たちをどう信仰に導くか、です。教会によっては、求道者会、信仰入門講座などを用意しています。しかし知識の伝達では、人を悔い改めに導くことは容易ではないと思います。またこのような集会の用意のない教会もあります。基本的には、礼拝の説教によって導かれることが期待されます。祈りがなされます。

 昨日の礼拝で私の隣に求道者の方が座っておられました。その方が洗礼に導かれるように私は日々祈っています。説教の間、神さまが隣の姉妹を導いてくださるように祈り続けることもあります。そのために説教を聞くことがおろそかになったりすることもあります。この姉妹は私が知る限り2年以上、求道者として礼拝に出席されていますが、信仰の告白にはまだ至っていません。

 そこで私が思い出すのは次の聖書です。コリント一14章23~25節。

教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。

 信者でない人が

「まことに、神はあなたがたの内におられます」

と告白するのはどのような集会なのかと考えます。これは礼拝でないことは明らかです。礼拝では説教者一人が語ります。聖書が語る集会では「皆が預言している」とありますから、集会に参加している人たちが語り合っているのです。今風に言えば、信仰の歩みについて正直な分かち合いがなされているということだと思います。私たちの教会の伝道が振るわない一つの理由に、このような正直な分かち合いがなされていないことにあると私は考えています。これがなされれば求道者が信仰に導かれやすくなると思います。

 求道者には、信仰に入るための壁があります。その壁をどう突き破るのか。私が求道者であった時、目に見えない神を信じることができることが不思議でしたし、罪が分かりませんでした。死の恐怖をどう乗り越えるのか、分かりませんでした。そんな思いを語る機会も場も教会にはありませんでした。

 伝道を考える時、信者でない人をいかにして教会の集会に来てもらうかということ、そして教会の礼拝、集会に来るようになった人をいかに信仰に導くのか、が課題であることを思います。

 

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大台ヶ原