クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

どのような時も幸せを

 どのような時も幸せを感じたいと願っています。欲張りでしょうか。私はある時から幸せを感じるようになりました。それは信仰により神から来る平安を与えられてからです。聖霊の実、と私は考えています。

御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、・・・

 自分の存在を喜べる時、人は幸せを感じることができるのではないかと考えています。若い時は、何をすれば幸せになれるのか、何を得れば幸せになれるのか、いろいろ考え努力しましたがダメでした。生きることの空しさを抱えていた私には、一時の満足しか得ることができませんでした。空しさを抱える自分を喜べるはずがありません。信仰により、自分の存在を喜べるようになり、心の深いところで静かな喜びと平安が宿りました。

 仕事を引退した今、ゆっくりしたペースで生活しています。平凡な日が続きますが、すべきこともあり、何よりも聖書を読むことにより、充実した日を過ごすことができ、感謝であり、幸せを感じます。

 老いを生きるということは、病気、伴侶との別離、この世との別離など困難が予想されます。これからどんな「今」が訪れるか分かりませんが、どんな「今」でも幸せを感じたいです。老いの挑戦です。

 先日妻が一週間留守しました。長男家族のもとに用事があり出かけました。おかげで独りの生活が続きました。ひとりぐらしの予行演習になりました。三食の用意をしなければならず退屈はしませんでしたが、誰とも口をきかない生活というのは辛いものがあると思いました。教会の礼拝やその他の集会に出席できるのはありがたいですね。健康状況によっては、これもできなくなります。

 信仰者は聖書を読み、祈ることができ、神さまとの交わりを持つことができるのは、幸いであると段々身にしみて感じるようになりました。

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柿の木は何を考えているのだろう