クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私と私の心の区別

(クリスチャンの成長(58)キリストに結ばれて- 16)

 人格としての「私」を考えます。この「私」は心を持っています。「私」の心ですが、「私」ではありません。「私」は自分の心を見ることができます。「私」は今、こんなことを考えている、こんなことを感じている、と言うように、「私」は、自分の心を観察することもできます。「私」の心なので、心は「私」と関係深いことは確かですが、「私」の心は「私」ではありません。

 なぜこんなことを言うかというと、混乱しないためです。キリストに結ばれた「私」は新しい人であり、もはや古い人ではありません。古い人はキリストと共に死にました。

 「私」は新しい人であり、神さまが与えてくださる新しい命に生きる者ですが、肉の性質があるために「私」の心には、悪しき思いが湧いてきます。だからといって、古い人が生き返ったわけではありません。

 さらにもう一歩進んで言えば、新しい人である「私」は、罪から解放されています。なぜなら「私」は、罪を犯したいとは思わないからです。キリストに結ばれた人が姦淫をしたい、物を盗みたい、憎らしい人を殺したいなどと願うでしょうか。「私」は願いません。しかし、そう願う思いが心の中に湧いてくることはあります。

 このような思いが湧いてくると私たちは、やはり自分はまだ古い人なんだとか、自分は罪深い人間なんだとか、考えてしまいがちです。肉の性質がある限り、好ましくない思いは、湧いてくるのです。問題は、これにどう対処するかです。悪しき思いに負ければ、罪を犯すことになります。これに勝てば、私たちは聖なる者とされていきます。

 「私」は誰か、と言われたら、「私」は新しい人です。もはや古い人ではありません。「罪から解放されている」と語ることさえできます。

 新しい人は、「御子の支配下」「恵みの下」に生きているので、肉の働きに勝つことができます。これは聖霊の導きによって歩むこと、聖霊の助けを得て歩むことを意味しています。

ガラテヤ 5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 

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ゲンノショウコ(現証拠)面白い名前です