クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

A長老とBさんの対話(10) 私たちは自由か

「A長老、こんばんわ。お話しできるかなと思って祈祷会に来ました」

「祈祷会、ご一緒できてよかったです」

「先日のお話しが気になったものですから」

「出エジプトの話しですね」

「はい、出エジプトの話しは、昔の出来事ではなく、私たちの話だと言われましたよね」

「はい、私も最初はどういうことかなと思いました。うちの先生は時折、説教で話しをされますから、そのうちBさんも耳にすると思いますよ」

「そうですか。じゃあA長老は、今は理解されているというか、自分のこととして受けとめているということですか」

「はい、受けとめることができるようになりました。Bさんはどうなのですか」

「出エジプトという昔の物語が自分の話だということに驚きました。しかし聞き捨てにしてはいけないと思いました。それでA長老とお話をしたいと思った次第です」

「うちの先生は、私たちは罪と死に支配されていますが、イエス・キリストによって解放され、約束の土地つまり神の国を目指して、この世という荒野を旅していると話されます。言葉は理解できても、話しとしてはわかりにくいかもしれませんね。まず、私たちは罪と死に支配されていると言うんです。どうですか」

「私としては、自由な人間として生きているつもりで、何かに支配されているという感覚はあまりありません」

「Bさんは、誘惑に負けたり、何かを恐れるということはありませんか」

「誘惑に負けるということは時にあります。でも誰にでもあることではないですか」

「何かを恐れるということはどうですか」

「あまり意識したことはないように思います」

「そうですか。たとえば失敗を恐れたり、人を恐れるというか、人が自分のことをどう思うか気になったりしませんか」。

「A長老は心理学の勉強をされたんですか」

「いや心理学の勉強なんかしていません。ただ私は自分の中に恐れがあることを知っています。たとえば何かしようとした時、人がどう思うだろうかと気にすることがありました。人の目を恐れているのです。人の目を気にして、自分のしたいことができないということがありました」

「なるほど」

「失敗を恐れて新しいことに踏み出すというか、何かにチャレンジすることにためらいを覚えたこともありました。何よりも私は死を恐れました」

「なるほど、そう言われれば、私にも恐れはあるかもしれません。基本的に人生はこんなもの、と考えてきたので、自分の心をきちんと分析するというか、自分の心をのぞくことはあまりしてこなかったように思います」

「私たちの心は案外、不自由なんです。前回お話しましたがBさんは思い悩むというか、思い煩うことはありませんか」

「それはありますよ。判断に迷う時、選択に迷う時があります。何が正解か分からず、どうしたらいいか迷う時がありますし、自分が下した判断が、よかったのかと思うことはあります」

「聖書は、思い煩いから私たちは自由になれると約束していることは、この間、フィリピの信徒への手紙を読みましたよね」

「はい、そうでした」

「もし私たちの心に、平安がいつもないならば、言い換えると心が穏やかでない時があるとするなら、私たちは何かに支配されているのです。多くの人は自分が何かに支配されているなんて気づかないし、気づこうともしていません」

「私もそうなのかもしれません」

「礼拝の最後に祝祷がありますね。『主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように』。その後『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように』と続きますね」

「はい」

「主があなたに平安を賜るようにとあります。心の平安は神さまの賜物なんです。これが毎週の礼拝の最後で祈られています」

「そうですね。A長老は、いつも平安なんですか」

「私は平凡な信仰者です。聖人ではありませんから、心が穏やかならざる時はもちろんあります。その時は祈るようにしています。でも基本的に心の底には平安があります」

「それはすばらしいですね」

「これはすべての信仰者に約束されていることだと私は信じています」

「私にも約束されているんですね」

「もちろんです。いいこと教えてあげましょうか」

「お願いします」

「Bさんは自己中心という言葉を知っていますよね。あるいは利己的という言葉も知っていますよね」

「はい、もちろんです。妻から、あなたは自己中心的だと言われることがあります」

「ふっふっふっ。そうですか。人は多かれ少なかれ皆、利己的で自己中心です」

「その通りだと思います。それが何か問題ですか」

「はい、問題です。それは言い換えると人は<自分>に支配されているということです。自分が第一という考えに支配されているということです」

「そんなの当たり前ではないですか」

「当たり前です。でも聖書は、それは<自分>に束縛されている、<自分>に支配されているというのです。すると何が起きるか分かりますか」

「何ですか」

「争いです。その結果、平和が失われます。夫婦の間でも、親子の間でも国家の間でも」

「なるほど。夫婦げんかした後の気分はいやですね」

「自己中心に支配されている、どうですか」

「なるほど、それは私にもあると思います。イエス様は私を自由にしてくださるというのですか」

「はい、そうなんです。すばらしいでしょ!」

「でも、自分が自分でなくなってしまうようで不安があります」

「でもキリストを信じる新しい人とは、自由な人のことを言います」

「なんかうれしくなりましたが、少し考えさせてください。ついていけない感じがあります」

「ではおやすみなさい」

「おやすみなさい」

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