旧約聖書にエレミヤという預言者が登場します。神がエレミヤに呼びかけます。
1:5
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」
エレミヤは自分は若者に過ぎず、預言者という大役は果たせないと尻込みします。すると神は言います。
1:7
若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。
彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す。
神は「わたしが命じることをすべて語れ」と命じ、「必ず救い出す」と約束されました。神は人に使命を与えるとき、必ず約束と命令を語られることを思います。
私は神学校を卒業し、教会に赴任しました。1981年のことです。40年も前になります。5月に私は准允式に臨みました。私は准允を受けます。准允という言葉はなじみのない言葉です。許可を与えるというような意味のようです。その結果、教会の礼拝で公に説教をすることが認められます。式文には「私たちは、ここに、その准允式を執行し、これを聖職に任じ、主としてみ言葉に仕える者、宣べ伝える者とならせ・・・」とあります。
この准允を受け、福音を宣べ伝える務めに遣わされることになります。神から福音を宣べ伝えなさいと命じられることになります。それでは、どんな約束があるのでしょうか。
准允式の中には次の言葉があります。「あなたをこの職に任じられた主は、必ず恵みと力を授け、御言葉の奉仕者としての生涯を祝福されるでありましょう」。これは約束です。
さらに「ますますへりくだって召された召しにかなって歩み、何事にもつつしみ、苦難を忍び、伝道者の業をなし、自分の務めを全うしなさい」。これが命令です。
40年前のことを覚えているわけではありません。手もとにある式文を読み、派遣とそれに伴う約束を確認しました。36年にわたる伝道者の務めを果たし終えたことを思うとき、祝福された歩みを導かれたことを思います。