クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

心の貧しい人

マタイ 5:3
心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。

 これは山上の説教の出だしの言葉です。貧しい人が幸いというのは、理解しにくいです。貧しいより豊かな方がはるかに幸いだと多くの人が考えます。

 日本語では「心の貧しい」と訳されていますが、「心」と訳された言葉は元のギリシャ語では「霊」となっています。ですから文字通りに訳せば「霊において貧しい人」となります。

 霊という言葉は、神との関わりを暗示しています。使徒パウロは「霊の人」「肉の人」という言葉を使っています。「霊において貧しい人」とは、神との関わりに生きることが少ない人を指していると考えることができます。つまり神の御心を思うことが少なく、いやほとんどなく、自分の思いを中心に生きている人を差しています。

 世の大半の人は、神のことは思わず、自分の思いで生きています。自分が霊において貧しい人であるなどとは考えもしません。心の豊かな人を目指しているのではないでしょうか。

 主イエスが霊において貧しい人というのは、神を思うこと少なく、神の御心を思うことが少ないと自覚する人です。それゆえ神を思い、神の御心を大切にして生きて行こうとする人と考えることができます。

「天の国はその人たちのものである」。

 天の国とは、人が死んだら行くとされる漠然とした素晴らしいところという意味ではありません。天の国は神の御支配を意味します。言い換えると霊において貧しい人は天の国に住むのです。神が私たちと共にいてくださり、私たちは神と共におり、神が私たちにとって親しい存在になってくださいます。私はひとりで生きているのではなく、神が共にいてくださいます。目には見えませんが、霊の貧しさを知り、神を求めて生きる人は天の国に今生き、幸いであると教えられます。

 神の御心を大切にして生きようとする人は、幸いです。なぜなら、神が共におられ、神と共に生きていくことができるからです。

 そして人間にとっての一番の幸いは、神が共におられることです。これは、神と共に生きている人しか知り得ない事柄です。

 聖書に親しみ、神の御心を大切にして生きている人は、自分は幸いな者であると感謝しているのではないでしょうか。私の身に何が起きても、何があっても、私たちを神から切り離すことはできません。信仰は神との関わり、交わりに生きることです。

 私は自分が霊において貧しい人間だと考えます。霊において豊かな人にはなれないと考えます。貧しいからこそ、神の御心を大切にして歩もうとします。霊において貧しい人は幸いです。

 

*昨日、説教を聞けるようにしましたが、説教のサイトの更新を忘れていました。今は更新しているので聞くことができます。

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