去る1月12日説教奉仕をしました。その内容を紹介します。
聖書 ローマの信徒への手紙5章1~11節
説教 神との平和を与えられて
1.義とされると何故平和?
5:1
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
→使徒パウロはこのロマ書3章で
「人はイエス・キリストへの信仰によって義とされる」
という大切な教理を教えました。
人は罪を犯し、神の怒り、神の罰を受ける者となっています。
しかしイエス・キリストは十字架の上で、人間が受けるべき神の怒り、神の罰を
その身に受けて十字架で死なれました。
このことを信じる人を神は義とする、
つまり神の前に正しい者であると見なすと神は約束されました。
神の前に正しい者である、これがキリスト者の立場、キリスト者の身分ということができます。
→神の前に正しい人というのは、神の教えを守る人ではなく、
イエス・キリストを信じる人であるとパウロは主張します。
神の前に自分の正しさを主張できる人、
完全に神の教えを守ることのできる人はいないからです。
神の教えを守ろうとするなら、その教えには従うことができない、
いや従いたくないという教えに私たちは出会います。
神の教えを憎み、嫌い、反抗する自分の罪を思い知らされます。
→私は神の教えは守らなくてよいとは言ってはいません。
キリスト者は神の教えに従うべきです。
でも従うことによって正しい者になれるわけではなく、
従うことによって救われるわけではありません。
→ロマ書の4章では、神は、神の約束を信じ抜いたアブラハムを、
義と認めています。
つまり彼を正しい者と認めています。
そして今日の聖書で、イエス・キリストを信じ、義とされた人は、
神との間に平和を得ているとあります。
→イエス・キリストを信じる人は、
義とされたのですから、神の罰、怒りを受けることはありません。
キリスト者は神と平和条約を結んだようなものです。
世の人たちは、自分の身に何か悪いことが起きると
自分は何か悪いことをしたのかと自分の歩みを振り返ります。
つまり天罰を恐れています。
しかし私たちは、この点、安心です。
神さまは私たちを正しい者として見てくださるからです。
神と平和条約を結んだ者が、神からの罰を受けるはずがありません。
→ここで一つ疑問が生じます。
神との間の平和は、神からの罰を受けないという平和、それだけを意味するのでしょうか。
それとももっと豊かな内容を持つ平和なのでしょうか。
神との間の平和、それが今日のテーマです。
2.神との間
→この平和について、私たちは「神との間に」平和を得ているとあります
「神との間」。これは私たちが神との関わりに生きていることを示しています。
私たちは神との関係の中で平和を得ているというのです。
私たちは神との関わり、言い換えると、神との交わりに生きています。
私たちは自分の人生を孤軍奮闘して生きているのではありません。
自分の孤軍奮闘の努力で平和を勝ち取ることは困難です。
私たちは神との交わりに生きています。
私たちが神と共に生きているからこそ与えられるのが平和です。
平和、これは神から来るのです。
3.神との交わりに生きるイスラエルの民
→そこで私たちキリスト者が神との交わりに生きるものであることを確認をしたいと思います。
創世記によれば、人は神に似せて、神にかたどって造られたとあります。
神が人を造られた時、そこに男と女がいたとあります。
男と女は、結婚という形で「交わり」に生きる存在です。
人は他者との関わり、他者との交わりに生きる存在として造られました。
このことは人が神との交わりに生きる存在であることを示しています。
エデンの園で彼らは、神との交わりに生きていました。
神は園の中にある木から何でも食べてよいと祝福し、
園の中央にある善悪を知る知識の実は食べてはいけない、
食べると死ぬからと警告しました。
彼らは禁じられた木の実を食べ、神の戒めに背き、神の怒りを買い、
エデンの園から追放されてしまいました。
彼らは神との交わりを失いました。
→次は旧約聖書の出エジプト記です。
出エジプト記には、
エジプトで奴隷となっているイスラエルの民が登場します。
神はイスラエルの民を奴隷状態から解放し、シナイ山のふもとに導き、
彼らと契約を結びました。
神はイスラエルを神の民として選び、彼らの神となると約束しました。
イスラエルの民は、神の民として生きることを約束しました。
イスラエルの民は、神との交わりに生きるべく、神の民に選ばれました。
ここに神との交わりに生きる民、神の民が誕生しました。
→創世記を読むと、神がアブラハムに繰り返し語り、
アブラハムが神のことばに応答して生きていたことが分かります。
出エジプト記を読むと、モーセも何度も神とのやりとりをしています。
アブラハムも、モーセも神との交わりに生きた人でした。
→イスラエルの民は神の民となりました。
しかし、神の民イスラエル、神との交わりに生きようとしなかったことが旧約聖書に書かれています。
彼らはしばしば偶像礼拝を行い、神に背を向けて歩みました。
神から遣わされた預言者は、イスラエルの民に神に立ち帰るように促しましたが、
イスラエルの民は預言者の声に耳を傾けませんでした。
その結果、イスラエルの国は、神の怒りを買い、滅びてしまいました。
4.神との交わりに生きるキリスト者
→新約聖書には、信仰とは神との交わりであることを明確に伝える言葉があります。
コリント一 1:9
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
ヨハネ一 1:3
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
→そして私たちキリスト者は、実際に神との交わりに生きています。
たとえばこうして日曜日、教会に行き、私たちは神の前に出ます。
説教者を通して、私たちは神さまの言葉を聞きます。
私たちは神に祈り、神に賛美を献げ、献金をします。
礼拝の最後には神からの祝福を受けます。
ここには礼拝する者と神との交わりがあります。
→また私たちは信仰者として日々の生活の中で聖書を読み、祈ります。
聖書を読むとは神に聞くことであり、祈るとは神に語りかけることです。
もし私たちが、自覚的に神との交わりに生きようとするなら、
聖書を読み思いめぐらすことが大切です。
聖書を通して神さまは何を語りかけてくださるのか、心で聞きます。
また読んだ箇所に、教えが書かれていれば、その教えに具体的にどのように従うのか、思いめぐらしそれに従おうとします。
それは神の言葉に対する応答となります。
神さまは、私たち一人ひとりを愛し、導こうとされます。
それ故、私たちは聖書を思いめぐらし、神の語りかけに聞こうとします。
→このように、私たちは神との交わりに生きています。
信仰とは神との交わりに生きることであると意識することは大切だと考えます。
何故なら、神さまが私たちを義としてくださるのは、
神さまが私たちを正しい者と宣言してくださるのは、
私たちを神さまとの交わりに招いてくださっているからです。
ロマ書を読んで不思議に思うことは、パウロは罪の赦しを語らないです。
なぜ赦しを語らないのでしょうか。
神はキリストを信じる者の罪をもちろん赦しますが、
神の目的は、それは信じる者を義とし、神との交わりに招くことにあることをパウロは強調しているのです。
→さらに交わりに生きる時、私たちは相手のことを大切に考えます。
夫婦の場合は、相手の存在、相手の心を大切にしてこそ、平和な夫婦関係が築かれます。
信仰者の場合は、神の心を大切にするように導かれます。
私たちは神の心を大切にするので、神の戒めに従います。
相手のことを大切にすることを愛すると言います。
神さまのみ心を大切にし、神を愛することのできる人が、家族を含めた隣人を愛することができるのではないかと私は思います。
5.平和って何?
→私たちキリスト者は、このように神との交わりに生きようとします。
この私たちは神との間に平和を持ちます。
この平和には、神の怒り、神の罰を受けないという意味がありますが、
それ以上にいろいろな意味があります。
聖書を引用しながら、紹介します。
→思い悩む人へむけての聖句があります。
フィリピ 4:6~7
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
→ここには、思い煩う人への約束があります。
神の平和があなたがたの心と考えを守るとの約束です。
この約束が実現するためには、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」との命令に従う必要があります。
神の約束には命令が伴うことがあります。
命令に従うと約束が実現するのです。
何事かに思い煩い、思いが堂々めぐりして穏やかな心が取り戻せない時、
神の平和が私たちの心と考えを守ると約束されています。
→苦しみの中にある人に向けての聖句があります。
ヨハネ 16:33
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
→ここにも約束があります。
この世で苦難に出会っても、イエスによって平和を得ることができるというのです。
そして勇気を出しなさい、と苦難の中にあっても
信仰者として雄々しく生きて行くことができるとの約束です。
苦難に直面しても、イエスから来る平和に包まれて雄々しく歩めるとしたら、
私たちは苦難をも誇ることができます。
今日の聖書の3節に「苦難をも誇りとする」とあるとおりです。
→信仰者とは、平和のうちに生きる者であると語る聖句もあります。
ローマ 14:17
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
→イエスは「神の国は近づいた、悔い改め福音を信じよ」と語られました。
人々を神の国に生きるように招かれたのです。
神の国とは神の御支配を意味します。
そして私たちはイエス・キリストを信じ、神との交わりに招かれました。
神との交わりに生きるとは、神の御支配の中を生きること、
神の国に生きることです。
私たちは、神の国、つまり神の御支配の中に今生きています。
私たちは、神に愛され、神の愛の中に生かされています。
そのことは今日の聖書8節に書かれています。
ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
→私たちを愛してくださる神との交わりに生かされている時、
私たちは、神の国、神の義の支配の中を生きていると言ってよいのです。
神が共にいてくださるなら、平和と喜びを見いだすと約束されています。
→新約聖書には、ローマの信徒への手紙を始めとし、
沢山の手紙があります。
その手紙の出だしには必ずと言ってよいほど
「イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように」と祈られています。
私たちは、この神から来る平和に生きるように召されています。
そして今日の聖書は、信仰によって義とされた私たちは、
この神の平和の中に置かれていると告げます。
→もう一つ聖書を引用します。
ローマ 15:13
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
→「信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし」とあります。
信仰によって「あらゆる喜びと平和とで満たされる」と祈られています。
これもまた約束です。
神の約束は時に既に実現していると信じることが大切な時があります。
キリストを信じる者は義とされるとの約束は、
キリストを信じた時、実現しています。
「あらゆる喜びと平和とで満たされている」、これも実現しています。
キリスト者の心の底には、周りの状況に左右されない平和と喜びがみあります。
神さまとの交わりに生きる素晴らしさはここにあります。
→ロマ書の8章には、神はキリスト者の味方であると書かれています。
私たちを愛してくださる神が、私たちの味方で、
この神との交わりの中に生かされている私たちが、
喜びと平和に満たされます。
神が共にいてくださると信じる時にもたらされ喜びと平和です。
この神に対する喜びと平和があるからこそ、私たちは勇気を与えられ、
神の御心に従って生きて行くことができます。祈ります。