クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

祈りが聞かれるには

 ヨハネ福音書の6章を今読んでいます。面白い?そうだよな!と思ったことがありました。イエス様は御自分を信じようとしないユダヤ人たちに語っています。44~45節です。

6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。

 ここにはイエス様を信じる人がどのような人なのかが語られています。その人は、父が引き寄せてくださった方であること。引き寄せてもらえなかった人は、イエス様のもとに行くことができない、つまりイエス様を信じることができないというのです。

 今ひとつは、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」です。イエス様を信じる人は、神に導かれ、そして自分でも父から聞いたことを学ぶというのです。イエス様を信じるという出来事には、神の導きとしての恵みがあり、かつ信じるという人間の側の主体的な決断があるというのです。

 聖書は複眼的な思考をしています。物事を一面的に考えないのです。それを思ったとき、祈りについて、思いが与えられました。

 祈りがかなえられるという出来事を考えるとき、神さまがかなえてくださるわけですが、私たちは祈って待っていれば、よいというわけではありません。神さまは願いをかなえてくださいますが、同時に、人間も願いがかなえられるために神さまの御心を行う必要があるのではないでしょうか。

 

イエスを信じるという出来事

  • 父なる神が引き寄せてくださる。
  • 父なる神から聞いて学ぶ。

祈りがかなえられるという出来事

  • 神が願いを実現してくださる。
  • 人は神に聞いて神の御心を行う。

 では私たちの願いがかなえられるために、神さまが用いようとされる私たちの行いは何なのか、それをどうやって知ることができるのか、が問題となります。

 答えは聖書です。聖書を読んで思いめぐらすことを日々行っていくとき、ある思いが与えられます。それを行うのです。私はある求道者が洗礼に導かれるように祈り続けていますが、今日の聖書を読んで、手紙を書くことにしました。何らかの形で神さまが用いてくださるように祈るつもりです。

 

 

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仙人草 散歩道にて

 

血圧対策、本気になれるか

 今、一月に一回Nクリニックに行き、血圧の測定結果をグラフにして医師に診せ、血圧の薬をもらっています。薬を飲まないと上の血圧は150くらいになります。この一年、薬を何回か変えました。副作用と思われる、唇のしびれを感じているからです。そこで先週から、薬を一日おきに飲むことにしました。薬の量を減らし、しびれがとれればありがたいです。今日クリニックに行き、医師にこのことを話しました。相談の上、一ヶ月様子を見ることにしました。

 食事では、もともと減塩しています。血圧を下げるための運動はあまりしていません。なかなかできませんが、考え直さなければならないと思わされました。運動と食事で可能な限り血圧を下げる努力をしなければならないと思いました。部屋の壁には空いた時間があったらしようと思っているいくつかのエクササイズを書いた紙が貼ってあります。なかなかできません。「しているつもり」になっても、効果は生まれません。

 自分の体、これは神さまから管理をゆだねられた体です。大切に管理しなければなりません。

この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。
コリント一4:2

 私の最初の罪の自覚は喫煙をきっかけとしたものでした。神さまから管理をゆだねられている体を喫煙で傷つけている、と。血圧についても、真剣に考えねばならないと思わされるこの頃です。

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奈良燈花会

孫たちに聖書を語る恵み

 一昨日、土曜日の朝、散歩をしました。孫たちが集まるとき、早朝の散歩をすることが恒例となっています。金沢にいたときは、浅野川沿いに散歩をしました。今年は、孫たちが私の住むアパートに迎えに来てくれて、それから緑地公園に行き、子供たちはブランコやそこに置かれている遊具で遊びました。

 そして一段落したところで、私が聖書を読み、短く聖書の話をして祈りました。私の願いは、孫たちが信仰を持つことです。読んだ聖書は伝道の書12章の言葉です。

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。
悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に。

 私の子たちは幸いに信仰を得、孫たちは皆幼児洗礼は受けています。孫たちが信仰の決断をしてキリスト者として歩んで欲しいです。孫たちに聖書の話をすることができたのは、恵みでした。

 私は少年の頃から色々悩みましたが、どう解決していいか分かりませんでした。もし教会に行っていて、聖書を学ぶことができたらどんなに幸いなことか、と思っています。

 もし私が教会学校に行っていたら、教会学校の先生に尋ねたい質問がありました。

「ねえ、先生。僕ね、宇宙のこと考えること恐ろしくなるの。だって宇宙は無限に広がっているでしょ。無限って怖いよ。なぜって宇宙の広さを考えると自分の存在が限りなく小さく思えて、自分なんかどうでもいい存在に思えてしまうから」。

「ねえ、先生。死ぬの怖くない。自分の存在がなくなっちゃうんだよ。先生は平気?」。

 

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虹はいつ見てもうれしい

 

 

老いを生きる光と影

 今週、週の後半は、子ども家族が横浜から、また小松から奈良に集まり、孫たちと共に過ごしました。人数が大勢なので、夕食のために私はカレーを16人分、パスタ用にトマトソースも16人分を作りました。迎える奈良に住む娘の負担を少しでも軽くできればと頑張りました。

 孫たちの存在は、神さまの恵みそのものです。私と妻が出会い、結婚し、子を授かり、その子どもたちが無事に成長し、結婚をし、子を授かりました。私と妻が神さまに生かされているしるしが孫たちの存在ということができます。幸いな人生を過ごすことが許され、感謝なことです。

 一人の孫が、妻に「おじいちゃんが死んだら、○○に住んだら」と言ったと妻が話してくれました。私が遠くない将来に死ぬ存在として見られていることを知りました。私自身は老いるつもりはありませんでしたが、老いました。そして喜んで老いを生きる思いで日々を過ごしていますが、それは裏返せば、老いを生きることに伴う陰みたいな部分を意識していることに他なりません。体力が衰え、健康の面でも差し障りを感じるようになりました。孫たちと一緒に遊び続けることはできません。

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久しぶりのアサガオ 散歩道で

 私たちの歩みには光が当たる部分と陰の部分がいつも隣り合わせであることを思います。それは老いた人だけに限らず、どの年代にも、そして誰にもあるように思います。そのような現実の中で、神を信じ、神をたたえる歩みができるなら、感謝です。

 今、詩編90編を繰り返し読んでいます。この箇所をキリスト者としていかに読むのか、課題と受けとめています。

 

人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
御怒りの力を誰が知りえましょうか。
あなたを畏れ敬うにつれて
あなたの憤りをも知ることでしょう。
生涯の日を正しく数えるように教えてください。
知恵ある心を得ることができますように

 

わたしは命のパンである

 イエスは言われました。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。

 

 人は何に飢え、何に渇くのでしょうか。イエスはサマリヤの女性に対しても、わたしの与える水を飲む者は決して渇かないと言われました。

 私にとっては、自分の生きる意味、生きる目的がわからない状態、それが飢え渇いている状態でした。かつて死を恐れ、何をしても最後は死んでしまう、そう思うと結局生きるとはむなしいことであると若い日に考えていました。この空しさから解放され、生きることを喜びとし、明確な目標に向かって生きることができる、それが私にとって、飢え渇きをいやされた状態でした。それがイエス・キリストを信じることによって与えられました。

 あるいは自分の存在を肯定できることが飢え渇きを覚えないことでもありました。欠けの多い自分の存在を受け入れることは決して容易ではありませんでした。特に自分と他者を比較し、自分の貧しさに落胆し、そのような自分を喜ぶことができない時期がありました。自分という存在を喜ぶことができない、それも飢え渇きの状態でした。ここからの救いは、神さまは私を愛し、私を受け入れてくださっていると信じることにありました。神さまが私を受け入れてくださっているなら、どうして、私が自分を受け入れないでいることができるでしょうか。さらに神さまは自分を個性ある者として造られたことを学んだとき、生きる出発点に立つことができたと思いました。

 でもイエス様が命のパンという時、私たちは日々、命のパンを食することを意味しています。パンは毎日食べるのです。信仰者として生きるとは、教えを身につけて生きるというより、日々パンを食すること、つまり日々聖書を読むことにあると思います。さらに言えば、聖書を通し、イエス・キリストをさらに深く知ることが、飢え渇きをいやす魂の糧となります。

 迷える小羊である私は、自分の主人である羊飼いを知り、羊飼いに従うことによって安心して生きていけるようになりました。聖書を読み、イエス様の言葉を聞くことを喜びとしています。

 ではもう飢え渇いていないと言えるのでしょうか。私は飢え渇いています。イエス様は言われました。

「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる」。

 

神をたたえる心

 詩編を読んで感じることの一つは、詩人がよく神さまを賛美していることです。あるいは信仰の告白をしていることです。詩篇90編の出だしは、

「主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。
山々が生まれる前から、
大地が、人の世が生み出される前から、
代々とこしえに、あなたは神」。

 

 詩人の祈りに比べて私たちの祈りは、神さまをたたえることが少ないのではないでしょうか。礼拝の中で祈りがなされますが、祈りの最初に「イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を賛美します」と祈られるのですが、たたえる祈りは最初だけで、繰り返されるのは感謝です。

 私たちは、自分の気持ちに目を向けていて感謝はささげますが、神さまには目が向いておらず、神さまをたたえることが少ないのでは、と思います。それでどうしたら神さまを賛美できるようになるのかと考えています。

 最近このブログの記事の半年分を製本しました。それを読んでみて分かることは、書いた時のことが思い出されることです。すると「ああ、神さまのおかげで一日、一日を過ごすことができた」とあらためて思います。自分が歩んできた日々を思い起こすことに意味があると思いました。つまり神さまを賛美することにつながるのではないかと思った次第です。

 日々の出来事も記録しておかないと案外忘れてしまいます。実際、読んでみると、ああ、そんなことがあったんだと思い出しますが、記録しなければ、記録しても読まなければ、ただただ毎日が過ぎ去っていくだけです。日々の出来事や思いを記録し、神さまが私にかかわってくださったことを記録し、それを振り返るとき、感謝を覚えると同時に、神さまをたたえることができるのではないか、とこの頃思います。小さなことでも感謝し、神さまをたたえることを積み重ねていくとき、旧約の詩人のようになれるのではないか、と考えました。チコちゃんなら言うのでしょうか、「ぼおっと生きてるんじゃねーよ」。

 昨日、詩編90編の1~2節で説教をしました。この詩編には思い入れがあり、説教したいと思っていました。マルチン・ルターが詩編90について書いている本を買った記憶がありますが、探しても見当たりません。amazonで見ると古本で1万円。そこで古書店つのぶえのサイトで見ると、ありました。送料含め、1,700円。ラッキー!これも神さまの導き、恵みです。

 

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春日山遊歩道 ミスジチョウ

 

「わたしだ、恐れることはない」

 イエス様が何千人もの人々を五つのパンと二匹の魚で満腹させた物語があります。その出来事のすぐ後で、弟子たちは舟でガリラヤ湖を横断しようとします。すると強い風が吹いてきて弟子たちはうまく舟を漕ぐことができず、悩みます。イエス様は湖上を歩いて弟子たちに近づきます。弟子たちは幽霊を見たのかと恐れます。

「わたしだ、恐れることはない」

とイエス様が語り、舟に乗られると風がやみ、舟は向こう岸に渡ったという物語です。

 マタイ、マルコ、ヨハネ福音書がこの物語を書いています。この三つを比較すると面白いです。マタイでは、湖上を歩いてきたイエスを見て、ペトロが「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」とイエス様に頼みます。いかにもペトロらしい。イエス様が「来なさい」というとペトロは舟から下りて水の上を歩き出しますが、強い風に気づいて怖くなった途端、沈みかけたというエピソードを書いています。

 マルコでは、イエスを見て幽霊だと思った弟子たちは大声を上げたとあります。ひどくおびえて叫んだのです。

 ヨハネ福音書の記述は、素っ気ない記述でドラマチックな表現はありません。「彼らは恐れた」としか書かれていません。この素っ気ないヨハネの記述を読みながら、なにを読み取ったらいいのか、と思いめぐらしました。そして思ったことは、イエス様は恐れの中にある私たちに対して「わたしだ、恐れることはない」と今も私たちに語りかけるお方だということでした。

 私は今、恐れの中にはいません。色々な恐れから解放されました。しかし病気になって不安に陥るとき、また死の病の中におかれたときなど、恐れに直面するようなことがあったなら、「わたしだ。恐れることはない」とのイエス様の声を聞きたいと思いました。

 私はイエス様の言葉を聞くことが平安をもたらすと信じています。死の床についたときには、このイエス様の言葉を聞き続けたいと思います。

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きれいな夕焼け