クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

伝道できる人を育てる

 私はサラリーマンをしながら夜間の神学校に行きました。2年生になったとき、入学してきた下級生の一人が、「僕は伝道したい。人々を救いに導きたい」と自己紹介をしました。熱い思いを感じました。私にはそんな熱い思いはなく、自分は違うなと思って気にしないで過ごしました。そんな私も神学校を卒業し、教会に遣わされ、牧師として毎日曜日説教をしました。

 今、牧師としての働きを終えましたが、振り返ってみて、「僕は伝道したい。人々を救いに導きたい」との熱い思いを抱くことはありませんでした。牧師としての働きを進める中で、私の心の中にふくれてきた思いは、伝道できる教会を形成すること、言い換えると伝道できる信仰者を育てるということでした。ここに私の賜物はあるかなと今、思います。

 私は伝道の学びのために、機会があれば超教派の集会にも参加するようにしました。そこでこんな言葉を聞きました。

「羊を産むのは羊です。羊飼いではありません」。

なるほどと思いました。すぐれた伝道説教をして人々を救いに招く賜物を与えられた伝道者がいると思います。そういう説教者は多くはありません。少なくとも私は違います。羊を産む羊を育てる伝道者、牧師になりたいとの思いで努力してきました。

 羊を産む羊とはどのような人を言うのでしょうか。二つの特徴を持っていると考えています。

 第一に聖書を読み、聖書を糧として信仰に生きる人です。私たちは生きる上で色々な問題や悩みに直面します。あるいは恐れや思い煩いにとらわれるかもしれません。御言葉によってそれらに対処し、生きることのできる人です。自分の身に起きる問題を御言葉によって対処できる人です。そのために教会で「聖書の読み方」(ディボーションの紹介)の学びを何回も行いました。

 第二に御言葉によって歩む信仰者としての自分の歩みを証しできる人です。御言葉によってどのように自分が歩んだかを語ることができることです。この場合、自分の証しを聞いて人はどう思うだろうか、とか、人を恐れず、証しできることが大切です。福音の証人として神さまに、イエス様に仕える人です。


 教会の中で分かち合いをすることによって、このような人を育てることができます。デボーションの学びの時の分かち合い、聖書の学びでの分かち合い、説教を聞いての分かち合いなど、色々チャレンジしてきました。

 

  

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春の到来に先駆けて咲くベロニカ 散歩道にて

なすべきことはただ一つ

 私には一つの課題があります。それは『喜んで死ぬ』という課題です。私の終活です。死期が近づいているわけではありません。ご心配なさらないでください。

 ルターも親鸞も死後自分が行くところを知っているのに、しかもそれが素晴らしい「ところ」であることを知っているのに、自分の死を喜んでいないと告白しています。そのことは1月18日のブログに書きました。ですから私の課題は、彼らを超えるチャレンジとなります。

 この二人がなぜ、自分の死を喜べなかったのか、理由は分かりません。私の場合は、この世に長く生きたためにこの世に愛着があるのではないかと思います。この世にいることに安心感があるのです。向こう行くことに一抹の不安を感じるのです。未知の世界に行くことへの不安です。

 そんな私にとってアブラハムは模範です。ヘブル書にこう書かれています。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(11:8)。

 「行き先も知らずに出発した」。すごいなと思います。このアブラハムの姿は、信仰生活に入るとき、私の模範でした。信仰の世界がどのような世界か分かりませんが、アブラハムを模範とし、信仰に生きようと励まされました。そして今、「行き先がどのようなところか分からずに出発する(世を去る)」のです。今度は信仰の世界ではなく、神の国です。

 アブラハムの場合、戻ろうと思えば住み慣れた町に戻れるのです。しかし神の国に向かって出発するとき、後戻りはできません。後戻りできない、そこに何とも言えないものがあります。言葉で表せば、この世に対する未練あるいは未知の世界に行くことへの不安です。

 この未練に対する解決は祈るしかないと思っていて、昨日祈りました。パソコンに向かって祈りの言葉をタイプしました。すると一つの聖句が思い起こされたのです。私の祈りに対する神さまの答えと思いました。その聖句はこれです。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13~14)。

 今の私に適切な御言葉を与えられたと感謝しました。この聖句をA4の紙に印刷し、壁に貼って目につくようにしました。

 

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与えられた聖句

 

 

 

信じたい、信じられない

 今、ヨハネ福音書14章を読みながら黙想しています。13章の終わりでイエス様は、自分が行くところに弟子たちはついて来ることができないが、後からついてくると語られました。ペトロは、自分はあなたのために命を捨てる覚悟があるので一緒に連れて行って欲しいと語ります。するとイエス様はペトロに「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と語り、ペトロの喉元にナイフを突き刺すような言葉を投げかけます。

 「ついて来ることができない」と言われ、イエス様に突き放され、見捨てられたかのような気分を味わい、ペトロに対するイエス様の言葉を聞いて弟子たちは心を騒がせました。そこでイエ様は言うのです。

「神を信じなさい、わたしを信じなさい」

 弟子たちの心の動揺は、イエス様のこの言葉を聞いても簡単にはおさまらなかったと思います。

 弟子たちは神を信じています。イエス様をも信じているのです。でも今、イエス様に見放され、ペトロに対するイエス様の言葉を聞いて、不吉な予感を感じ、心の動揺をどうしようもない弟子たちがいるのです。「信じなさい」と言われても、簡単には信じられないのです。

 昔イスラエルの民がエジプトを脱出し荒野を旅し約束の地を目指しました。約束の地を前にしたときモーセは偵察隊を遣わし、約束の地がどのような土地かを探らせました。偵察隊は、良い知らせと悪い知らせをもたらしました。肥沃な土地で良い土地ですと良い報告。そこには強そうな民がいると悪い報告。悪い知らせを聴いた民は怖じ気づき、「進もう」と励ますヨシュアを殺そうとさえしました。不安や恐れに囚われたときこそ、信ずべき時です。しかし不安や恐れに囚われているから、信じることができないのです。

 イエス様は「神を信じなさい、わたしを信じなさい」と語られます。イスラエルの民は、信じることができず、エジプトに引き返そうなどと語りました。「信じよう、でも信じられない」の葛藤の中におかれると人は信じない方に傾きます。信じて進んだ場合、もし期待通りの結果が得られなかったらどうしようと思うのです。

 信じるべき時に信じられないという葛藤を覚えるのが私たちです。この葛藤をいかにしたら乗り越えることができるのか、私は悩み、考えてきました。理性による解決です。しかし理性には、この葛藤を解決する力はありませんでした。理性はこの葛藤から抜け出ることはできませんでした。神さまだけが解決できます。必要なことは祈ることです。一つの祈りは、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)です。

 聖書を思いめぐらす、楽しいです。

 

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雨の日の孫との散歩

 

聖書に描かれている罪(9)ソロモン王の罪

 イスラエルの王ソロモンは、神さまから知恵を与えられ祝福された王でした。うらやましいエピソードがあります。ある時、主なる神はソロモンの夢枕に現れ

「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」

と言われたのです。神さまが私にこのようなことを言われたら何を願うのかと思わされます。もし神さまがこのようなことを私に言われたら、「この日本でのキリスト教の伝道が盛んになる」ことを願うと思います。それはそれとしてソロモン王は神に知恵を求めました。そのことは神の喜ぶところとなり、神は彼に富と栄光をお与えになりました。そのソロモン王ですが、富と名誉に包まれた結果、

「ソロモン王は、多くの外国の女を愛した」(列王記上11:1)。

「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。・・・ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった」(同11:4以下)。

しかし、

「ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった。主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった」(同11:9~10)。

そこで主は仰せになりました。

「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。あなたが生きている間は父ダビデのゆえにそうしないでおくが、あなたの息子の時代にはその手から王国を裂いて取り上げる」(11:11)。

 昔イスラエルの民がエジプトを脱出し、神が与えられる地に入ったとき、神は、外国人の女を息子のためにめとってはならないと警告しました。女が自分の神を持ち込み、偶像礼拝へ誘われかねないからです。まさにソロモンは、外国の女を愛し、偶像礼拝に向かいました。そして彼の心は主から離れたのです。これが彼の第一の罪。神が戒められても悔い改めず、行いをあらためなかったことが第二の罪。

 私たちの心が主から離れる、これは注意しなければなりません。これまでいくつもの教会に説教奉仕に出かけましたが、礼拝で祈りをする長老(役員)のかたが「礼拝を終えて日常の生活に戻るや、あなたのことを忘れ、生活にかまけて一週間を過ごしました」と祈るのを聞きました。その方は礼拝の司式をするつどこの祈りを繰り返すのです。そこには悔い改めもありません。このような祈りをするのはこの方だけではありません。ソロモンの罪は、私たちと無関係ではありません。

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いにしえの古道の案内 散歩道

 

イエスの行かれたところに

 ヨハネ福音書13章36節以下を読みました。ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」とイエス様に語り、これに対してイエス様が「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われた箇所です。

 ペトロが語る直前イエス様は弟子たちにこうおっしゃったのです。

「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない。後でついて来ることになる」。

 イエス様はこの言葉を以前ユダヤ人たちに語ったことがあります。今回は弟子たちに語られました。このイエス様の言葉を聞いて弟子たちはどう思ったのかと考えます。「あなたたちは来ることができない」。急に突き放されたような気持ちになったのではないでしょうか。

 今流の言葉で言えば、イエス・ロスです。イエス様がいなくなる、大きな喪失感が生じます。それだけではありません。弟子たちはこれまで、イエス様と寝食を共にしてきました。イエス様はご自分がメシアであることを伝えてきました。その業はどうなるのでしょうか。中断してしまうのでしょうか。そしてこれから自分たちはどうしたらいいのか、弟子たちは一挙に不安に陥ったのではないかと想像したりします。

 そしてペトロは言います。「あなたのためなら命を捨てます」。ペトロはどんな気持ちでこれを言ったのでしょうか。イエス様のためなら自分は命を捨てる覚悟があるので、私を一緒に連れて行ってくださいとの思いなのでしょうか。この短い物語を読みながら、私の心に留まったのは

「後からついて来ることになる」

とのイエス様の言葉です。イエス様の弟子たちは、結果的にイエス様の行かれたところに行きました。つまり天の父のもとに弟子たちも行きました。

 そして私が死んだら、イエス様の行かれたところについて行くこと、つまり私も父なる神さまのもとへ行くことを教えられます。これはうれしいことです。この聖句も自分の死を受け入れることを助けてくれます。聖書を読む中で、自分の死を受け入れることを助けてくれる聖句に出会うのはうれしいものです。

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いつも行くパン屋の植木。オリーブの実が。

 

 

聖書に描かれている罪(8)モーセの罪

 イスラエルの民をエジプトから導き出した指導者モーセもまた罪を犯しました。そのためにモーセは約束の地に入ることができませんでした。モーセはどんな罪を犯したのでしょうか。

 エジプトを脱出した民は荒野を旅します。荒野の旅は楽な旅ではありません。様々な困難に直面します。ある時イスラエルの民は飲み水がなくなり、困ってしまいました。出エジプト記17章です。

民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」。 

  エジプトにおいて神は大いなる御業をなさり、民をエジプトから解放したのです。飲み水がない、この状況も神に頼ればいいのです。しかし民は、不信仰な言葉を語ります。

「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」。

 ひどい言葉です。エジプトでの奴隷状態の苦しみから助けて、と民は神に祈ったのです。モーセが神に祈ると神は言われます。

見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。

 モーセが杖で岩を打つと水が出て、飲み水は与えられました。それからどれほど時が過ぎたのかは分かりませんが、またもや飲み水に窮するという事態が起きました。民数記20章です。このように書かれています。 

彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。民はモーセに抗弁して言った。「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。

  この時も神は助けを与えてくださいます。神はモーセに命じます。

「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」。

 モーセはどうしたでしょうか。神は「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われました。岩に命じるのです。モーセはどうしたでしょうか。モーセは杖で岩をたたいたのです。水は出ました。しかし神はモーセに告げます。

「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」。

 「あなたたち」と複数になっているのは、モーセとその兄アロンを指しています。モーセは岩に向かって水を出すように岩に命令しなかったのです。いくら何でも岩に命じて水が出るとは思わなかったのでしょう。モーセは神がおっしゃったとおりに行わなかったのです。神の命令に従わなかったのです。それが彼の罪です。民が不信仰に陥らず、神に信頼していればモーセは罪を犯さずに済みました。しかし、しかしモーセも罪を犯しました。

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桜が咲いていました。びっくり。

 

 

 

聖書を読もう!

 ある時、ふと思ったのです。「聖書を読もう」との勧めが教会の中で余りなされていないのではないか、と。聖書は日本語で書かれているし、信仰者なら聖書をもっているし、わざわざ「読みましょう」などという必要はないのかもしれません。でも時に「私、聖書はほとんど読みません」と信仰者が語るのを聞いたりすると危機感を感じるのです。聖書を読まなくても礼拝に出席し、説教を聞いているのでそれでよしとしているのだと思います。

 ある時、ある牧師が「僕は信徒に聖書を読むようには勧めません」と語るのを聞きました。「なぜかというと、信徒は勝手読みするからです」。勝手読みとは、自分勝手に解釈するという意味です。「説教を聞いていればそれで十分です」。それを聞いて私は残念に思いました。彼は牧師です。彼の説教を信徒は日曜毎に聞いているのです。その信徒が聖書を読むと勝手読みすると考えるのです。彼の説教を聞いた信徒がその説教に養われているのに、なお勝手読みするというのでしょうか。信徒に対する不信の思いを感じました。信徒を信頼する、これは牧師にとって大切なことです。

 聖書を読むと驚くべきことが書かれています。

使徒言行録17章10~11節
 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 

  ベレアの人たちは会堂でパウロの説教を聞いた後、聖書を調べたとあります。つまりパウロの語ったことが聖書に即しているのかどうか調べたというのです。そして御言葉を受け入れた、つまり説教を受け入れ、信仰に入ったのです。

 牧師として私は説教します。私の語ったことが聖書に即しているかどうか、信徒が調べてくれたらよいな、と思ったことは何度もあります。そして「先生は、本当に聖書を説き明かしてくださっているんですね」と言ってもらえたらうれしいと思ったことがあります。それはほめられたからというよりは説教をしっかりと受けとめてもらえたと確信できるからです。

 「聖書を読もう」との勧めがもっと教会の中でなされるといいなと願っています。聖書を読むところから、教会の伝道力が養われるのではないかと考えています。

 

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散歩の帰りに寄り道を