クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書を読もう!

 ある時、ふと思ったのです。「聖書を読もう」との勧めが教会の中で余りなされていないのではないか、と。聖書は日本語で書かれているし、信仰者なら聖書をもっているし、わざわざ「読みましょう」などという必要はないのかもしれません。でも時に「私、聖書はほとんど読みません」と信仰者が語るのを聞いたりすると危機感を感じるのです。聖書を読まなくても礼拝に出席し、説教を聞いているのでそれでよしとしているのだと思います。

 ある時、ある牧師が「僕は信徒に聖書を読むようには勧めません」と語るのを聞きました。「なぜかというと、信徒は勝手読みするからです」。勝手読みとは、自分勝手に解釈するという意味です。「説教を聞いていればそれで十分です」。それを聞いて私は残念に思いました。彼は牧師です。彼の説教を信徒は日曜毎に聞いているのです。その信徒が聖書を読むと勝手読みすると考えるのです。彼の説教を聞いた信徒がその説教に養われているのに、なお勝手読みするというのでしょうか。信徒に対する不信の思いを感じました。信徒を信頼する、これは牧師にとって大切なことです。

 聖書を読むと驚くべきことが書かれています。

使徒言行録17章10~11節
 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 

  ベレアの人たちは会堂でパウロの説教を聞いた後、聖書を調べたとあります。つまりパウロの語ったことが聖書に即しているのかどうか調べたというのです。そして御言葉を受け入れた、つまり説教を受け入れ、信仰に入ったのです。

 牧師として私は説教します。私の語ったことが聖書に即しているかどうか、信徒が調べてくれたらよいな、と思ったことは何度もあります。そして「先生は、本当に聖書を説き明かしてくださっているんですね」と言ってもらえたらうれしいと思ったことがあります。それはほめられたからというよりは説教をしっかりと受けとめてもらえたと確信できるからです。

 「聖書を読もう」との勧めがもっと教会の中でなされるといいなと願っています。聖書を読むところから、教会の伝道力が養われるのではないかと考えています。

 

f:id:holala:20200124212526j:plain

散歩の帰りに寄り道を