クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

葬儀がありました

  今日は教会で葬儀がありました。私は出席したかったのですが、ご遺族から家族葬で行いたいとの強い要望があったとのことで参列はしませんでした。私が参列したいと思ったのは、亡くなった方が隠退牧師M先生の伴侶だったからです。M先生とは礼拝で何回かお目にかかったことがあるだけの関係ですが、一言ご挨拶ができればと思った次第です。

 今晩の祈祷会では、葬儀で読まれた聖書箇所を共に読みました。故人の略歴についても聞きました。そして16日日曜の夜9時過ぎに訃報の連絡が教会に来たと聞きました。そこから葬儀の準備が始まります。

 それを聞いて自分が牧会していたときのことを思い出しました。思いがけないときに訃報の連絡が来ます。すると葬儀に向けての行動を起こします。身を引き締めていざ出陣というような気持ちです。病院に行き、枕頭の祈りをします。葬儀社に連絡しご遺体の搬送の手続きを取ります。故人宅で遺族の方と葬儀社を交え、葬儀の打合せを行います。夜訃報の連絡を受け、夜明けに帰宅したことは何度もあります。

 年をとってきて、訃報の電話の連絡を受けることが苦になりました。若いうちは頑張れたのですがだんだん肉体的・精神的にしんどくなってきたのです。牧師を隠退し、訃報の電話を受けることがなくなり、あらためて平安な思いで生活していることを思います。

 今日は、奥様を天に送られた隠退教師のM先生の上に神さまの慰めとお支えを祈りました。祈祷会でも皆で共に祈りました。そして「明日はわが身」です。

 

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もう咲いているの 散歩道で

 

 

聖書に描かれている罪(13)イザヤの罪

 旧約聖書に預言者イザヤが登場します。イザヤ書6章に彼が預言者に召された記事があります。長いですが引用します。

 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」。
 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」。

 イザヤは神の臨在に直面しました。彼は告白します。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」。

 神の臨在に触れたとき、イザヤは自分が罪深き者であることを知らされ、神に滅ぼされると実感しました。興味深い出来事です。自分という存在が罪あるものであることを知らされたのです。

 この出来事は二つのことを教えてくれます。

  1. 人は、神の臨在に触れると、自分の罪を知らされるということです。
  2. そして人は生まれたときから罪あるものだということです。

 神の臨在に触れるという体験はあまりないと思います。むしろ神の働きかけによって、私たちは罪を思い知らされるといった方がよいと思います。神の働きかけは様々だと思います。

 かつて体に悪いと知りながらタバコを吸い続けていた私はある時咳をし、ハンカチを口に当てたとき、そのハンカチに血がべったりついているのを見て自分の罪を思い知らされました。あの咳を通して、神さまは私の罪を知らせてくださいました。この出来事は洗礼を受けるきっかけとなりました。

 私たちが生まれたときから罪あるものであることは詩編51でダビデが語っています。

わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。(詩編51:7) 

 

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水仙 散歩道にて

ご自身を現すイエス

 先週読んだヨハネ福音書の言葉です。以前にもこの聖句を読み、どういうことを言っているのか、思いめぐらしたことがあります。どう解釈したらよいのか、分からないままでした。でもイエス様がご自身を現してくださるとの約束は見過ごせません。そして先週、またこの箇所を思いめぐらしました。

わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。(ヨハネ14:21)

 以前施設に在園する一人の教会員が「イエス様が私の枕元に現れた」と訪問した私に語られました。そしてその姉妹は、「私はいつ死んでもいい」と話されました。分かる気がします。イエス様は

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)

と言われたのですから、こういうことがあったとしても不思議ではないと思います。このようなイエス・キリストの現れは、うらやましいと思います。これは、どちらかというと神秘的な体験なので、恵みとして与えられたら感謝ですが、これを是非与えられたいと祈るつもりはありません。

 以前、転入会された姉妹が「私はイエス様に出会いました」と語ったことがあります。洗礼を受けたことを「イエス様に出会った」と言われたと解釈しました。「どんな風に出会われたのですか」と聞いておけばよかったと思いますが、その時は、ちょっと気おくれして聞けませんでした。それまで「イエス様に出会った」と話す人には出会ったことはなかったからです。

 21節のイエス様の言葉は今回、イエス様が生きて働かれる救い主であることがわかるということではないかと解釈しました。そこでイエス様は、私の人生の中で、どのようにご自身を現してくださったのかを思いめぐらしました。

① 信仰を持つ以前に

 教会には通っていましたが、信仰をもつ前のことでした。ある本でイエス・キリストは自分にプラスとなるものを求めて生きてはいなかった。むしろ自分をささげ、自分を与える歩みをされた。得るのではなく、与える歩みをされたと書かれていたように記憶しています。

 これを読んだとき、一種の啓示を受けたような気持ちになりました。人は与えることを通して、豊かになるのではないか、と思いました。そのことは空しさから僕を救うきっかけとなりました。そしてイエス様を信じるように心が動かされたように思います。何をすれば、何を得れば空しさから救われるのか、と考えていた私に、獲得するのではなく、与えることにこそ、空しさからの救いがあると教えられました。私を信仰に導くべく、この時、主イエスは私にご自身を現されたのかもしれません。

② 最近のこと

 私は老いました。今の私にとって大切な聖句があります。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)。

 私にとってこの主イエスの言葉は、希望の言葉です。あたかも目の前で主イエスが私に語りかけておられると受けとめます。この言葉を思い起こすとき、希望の言葉を語る主イエスが私の前に来て下さって語りかけてくださっているように感じます。ご自身を現して下さったイエス様の声を聞くのです。この聖句は、説教奉仕をしているG教会の祈祷室に掲げてあり、祈祷室に入るたび、イエス様が語りかけておられるように感じます。

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2月9日G教会での礼拝の説教を説教サイトにアップしました。
時間のある時、是非、聞いてもらえるとうれしいです。
こちらをクリック
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散歩道にて

 

キリストに捕らえられて

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(フィリピ 3:12)。

 パウロは自分がキリストに捕らえられている、と語ります。では「私」はどうなのか、と思いめぐらしました。結論は、私もキリストに捕らえられている、です。ただ今まで自分がキリストに捕らえられていると意識したことはありませんでした。しかしキリストに捕らえられているということ、言い換えれば、キリストが私を捕らえてくださったということの気づきを与えられました。感謝です。あらためて聖書を思いめぐらすことの恵みを知ります。

 私がキリストに捕らえられていると思う第一の理由。何があっても私は信仰を捨てません。たとい一億円お金と積まれても信仰を捨てることはしません。無牧のG教会に説教奉仕をしています。駅から車の送迎をしてくださるOさんが言います。「たとい一億円積まれても礼拝を休みません。説教を聞きたいから」。お金と引き換えに信仰を捨てたり、礼拝を休んだりしない、それはキリストに捕らわれているからです。信仰を持つ以前の私は、死の恐れに捕らわれ、空しさに捕らわれていました。この状態には何があっても戻りたくないです。キリストに捕らわれる方がはるかに好ましいです。

死の恐れ 生きる空しさ なにものぞ
 われを捕らえる キリストすべて

 私がキリストに捕らえられていると思う第二の理由。幼友達が名古屋に就職しました。ある時出張で東京に来たので、一晩私のアパートに泊まってもらいました。私は彼に言ったのです。「僕には一つ憧れがあるんだよね。牧師になりたいとの憧れ。でも人間関係が苦手な僕だから、無理だと思っている」。

 やがて聖書をもっと知りたいとの気持ちに導かれました。仕事をしていたので、教会で聖書を学ぶ機会がありませんでした。せっかくなら、ということで夜間の神学校を受験することにしました。昼間は仕事をしているので夜間の神学校を選びました。願書と共に「召命」について書いた文書を提出しなければなりませんでした。召命というのは、牧師になるように神から呼びかけられたという自覚です。そんな自覚はありませんでしたから、文字通り作文です。それらしきことを書いて提出しました。

 無事に入学でき、4年間神学校で学びました。朝6時半に家を出て会社に行き、家に帰ると夜の11時頃という生活でした。不思議なもので4年生になる頃には、牧師になるのが当たり前という心境に導かれていました。これもキリストに捕らえられていたからだと今、思います。

キリストが われを捕らえる ありがたさ
 意識せずして 今まで生きる

何とまあ 迂闊な者で あることか
 気づかせたもう 神をたたえる 

  30数年の牧師としての歩みもキリストが私を捕らえ、支えてくださっての歩みだったと信じます。

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2月9日G教会での礼拝の説教を説教サイトにアップしました。
時間のある時、是非、聞いてください。
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福寿草 散歩道

 

聖霊を知る

 私はヨハネ福音書を少しずつ読んでいます。聖書を思いめぐらします。私の読み方を私はディボーションと呼んでいます。ヨハネの14章を楽しみにしていました。そこには聖霊のことが書かれているからです。思いめぐらしたのは14章16~17節です。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 まず聖霊、つまり真理の霊は、信仰者と共におり、また信仰者の内にいるとイエス様は語られます。父なる神が、私たちイエス・キリストを信じる人に送ってくださったからです。真理の霊が私と共におられ、私の内におられることは、信ずべきことであって確かめることはできません。信ずべきことなのです。神の存在そのものも確かめることはできないのに私たちは信じています。それと同じです。

 この真理の霊を「あなたがたは知っている」とイエス様は語られます。確かめることはできませんが、知っているというのです。そして注意すべきは「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない」とあります。「見ようとする、知ろうとする」ことが大切なのです。

 私たちキリスト者も真理の霊を見ようとし、知ろうとする努力が大切です。この努力をしないと信仰者も聖霊を知ることはできません。努力をすれば知ることができるというのです。ではどのような努力をすればいいのでしょうか。

 聖書を読む努力をすることと私は考えています。聖霊は真理の霊です。つまり聖書の言葉が真理であり、神の言葉であることを私たちに悟らせるのです。聖書が真理であり、神の言葉であると知るとき、それは真理の霊の働きであり、真理の霊は私たちと共におり、私たちの内におられるので、聖書を読むとき、働いてくださっているのです。

 聖書の言葉が真理の言葉であると悟るとはどういうことでしょうか。聖書の言葉が神の言葉であると悟るとはどういうことでしょうか。悟れば分かります。真理の言葉、神の言葉によって生きるようになるからです。考え方、生き方が変わります。

 

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福寿草 散歩道

 

 

 

 

 

人生でつらかったこと(4)劣等感

 この題で3回書くことにしましたが、妻が「あなたは劣等感でずいぶん悩んでいたでしょ」と思い出させてくれたので追加で書くことにしました。

 私は勉強が好きな子供でした。小学生の頃は授業で質問したら「分からないことを質問する。大切なことです」とほめられたことがあります。ほめられたことって覚えているものですね。中学、高校と努力しましたので、いい成績をとることができました。大学は一年浪人して希望する大学に入学できました。大学紛争が起き、連日のクラス討論が行われ、私は自分に意見のないことに劣等感を感じました。人生最初の劣等感です。

 社会に出て会社員として働きましたが、一生懸命働き、特に劣等感は感じないですみました。しかし牧師になってからです。牧師になって10年ほど経ってからです。教会員に物事を深く考える人がおり、聖書を牧師よりもよく知っている人がおり、いい説教をする牧師がおり、劣等感が深まりました。他人と自分を比較しなければいいのですが、そうはいきません。

 劣等感をバネにして生きてきた、と語る人がいます。私の場合は3つも劣等感を感じる点があるので、なかなか劣等感をバネにして生きることはできません。人は、それまで生きてきたようにしか生きていけない、という面もあります。自分でいくら考えても解決はありませんでした。

 解決は、外から来ました。教会で信徒の方たちと『人生を導く五つの目的』(リック・ウォレン著)という本を共に学ぶ機会が与えられ、この本を読んで劣等感からの解放を与えられました。神さまは、一人一人の人間を個性ある者としてお造りになったと書かれていて、心は自由になりました。当たり前のことですが、人には長所もあり短所もあります。それを受け入れればいいのです。50歳を過ぎていましたから、30年近く劣等感を抱き続けてきました。大切にする必要がないのに、大事に抱えて生きてきました(^_^;)。

 

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何のは花でしょうか 散歩道にて

 

 

人生でつらかったこと(3)牧師として歩む中で

 以前このブログにも書きましたが、また書きます。その頃、教会はなんかゴタゴタしていたというか、ザワザワしていたというか、いい状態ではありませんでした。私がそれらに関係していたことは確かです。

 教会の状況を心配したのでしょう、一人の長老さんが牧師館に訪ねてきて、話しをされました。2時間ほど話されたでしょうか。牧師としての私の問題点を話されました。彼の話を聞いて「それは違う」と言いたいこともありましたが、私は自分の記憶が曖昧だったので、反論しづらく、弁明はせず、聞き続けました。

 その後、日曜の朝、教会行くことに強いストレスを覚えるようになりました。日曜の朝、吐き気をもよおしました。私は彼を恐れたのです。でも教会に行かないわけにはいきません。教会に行き、礼拝奉仕をし、長老会を行い、牧師としての務めを果たしました。この強いストレスに悩んだ期間は、とてもつらかったです。うつ病になる寸前まで行ったように思います。神さまに守られました。

「あなたは自分の気持ちを大切にしていない。だから人の気持ちが分からないのです」

と言われ、考えさせられました。私は自分の気持ちより、自分は何をなすべきかを優先していました。心より頭を優先して生きていました。自分の気持ちを大切にし、人の気持ちを大切にするように考え方をあらため、努力しました。

 神さまの導きにより、彼に対する恐れからは自由になりました。

 私は牧師を引退して奈良に住んでいますが、ある時、彼から連絡がありました。「旅行の帰り、奈良に寄りたい」と。その長老さんが奥さんと一緒に訪ねてくださり、一緒にコーヒーを飲み、再会を共に喜びました。

苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。(詩編119:71)

 

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水仙 散歩道で