クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書に描かれている罪(16) まとめ(3)

 聖書に描かれている罪について紹介してきました。これらの聖句を踏まえ、罪について教えられることをまとめました。

3.罪とは、神の戒め、教えに背くこと

 具体的に神の掟に反することを行うことは罪です。行為としての罪です。旧約聖書に出てくるダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。十戒に違反したのです。イスラエルの民は、偶像を拝み、十戒の第一の戒めを破っています。

 私たちは罪というとまず、神の掟に反することを行うことを考えると思います。するとある人たちは、自分は神の掟を守っていると考えるようになります。聖書に登場する律法学者、ファリサイ派の人たちは、自分たちは神の掟を守っており、神の前に正しい者であると考えていました。使徒パウロも使徒になる前、クリスチャンを迫害しているときは、「律法の義については、非の打ち所のない者でした」(フィリピ3:6)と考えていました。神の前に自分は正しい者と考えていたのです。

 私たちにもその危険があります。自分は神の掟を意識し、守るように努力していると考えてしまいます。人を殺すな、姦淫するな、盗むな、隣人に関して偽証をするな、隣人の家を欲するな、これらの掟はちゃんと守っていると私たちは考えます。いつのまにか自分は神の前によくやっている、信仰者として努力して生きているとさえ考えるのです。そして自分は罪人ではないとひそかに考えてしまうのです。

 かつて私はそうでした。しかし自分は神の御心そのものを重んじていないと気づかされ、自分の罪深さを知りました。そうしてはじめて聖霊の導きを受けて生まれ変わった信仰者としての歩みが始まるのではないか、と考えています。

 またある人たちは、心の中に湧いてくる、汚らわしい思いに悩み、自分は罪深いものだと考えているように思います。繰り返し罪を犯していると考えるのです。イエス様も「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中で、その女を犯したのである」と語り、心の思いは、行動に移さなくても罪であると断言されました。汚れた思いが湧いてくるのを防ぐことはできません。でも対策はあります。気持ちを切り替えることです。

 かつて私は、人を批判する思いが心の中に湧いてきました。批判する思いは、相手を見下し、否定する思いになっていきます。恨みになることもあります。私は、その人のために祈ることにしました。その人の足りない点、欠点のために執り成しをするのです。こうして汚れた思いに勝利することができます。これを繰り返していけばいいのです。そうすれば汚れた思いに縛られた人間ではなくなります。

 またある人たちは、神の掟は、むずかしい、無理だと考え、また同意を求めて人に語ります。そしてそんな状態にとどまり続けてしまいます。自分の罪に居直り、弁明するのです。心の中に自分の罪を認めたくない頑固な思いがあるのだと思います。この不健康な状態から一日も早く抜け出すとよいと思います。

 

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道標 古都ですね奈良は 散歩道にて

 

向こうへ持っていけるもの

 変なタイトルですね。こんなタイトルを思いついたのは先日説教の準備をしていて聖書を読んでいたときでした。フィリピの信徒への手紙3章17~21節を説教箇所としました。その21節はこうです。

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。

 コリント一15章には、私たちは朽ちない体に、霊の体に復活するとパウロは書いています。ヨハネの手紙一の3章2節には

「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」。

コリント二3章18節には

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。

 以上の聖句をまとめると私たちは御子に似た者に、あるいは御子と同じ姿に復活して神の国に迎えられることになります。

 フィリピの信徒への手紙の言葉を読みながら、「そうだ、このみ言葉を持っていこう!」と思ったのです。死んで向こうへ行くとき、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」とのみ言葉を携えていこうと思ったのです。そして「ああ、この御言葉通りだった」とかの日には喜びたいと思いました。

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2月23日G教会で、フィリピの信徒への手紙による説教を行いました。説教サイトにアップしました。
時間のある時、是非、聞いてもらえるとうれしいです。
こちらをクリック
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見事な梅 散歩道

 

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近くからみた梅

 

 

 

 

聖書に描かれている罪(15) まとめ(2)

 新型コロナウィルスによる感染が広まりませんように。このブログを読んでいる方々、そのご家族のかたがたが感染から守られるようにお祈りします。日本政府が思い切った大胆な施策を打ち出し、効果的に蔓延が防止されるように祈ります。

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  聖書に描かれている罪について紹介してきました。これらの聖句を踏まえ、罪について教えられることをまとめてみたいと思います。

2.罪とは神との関わりに真剣に生きないこと

(1)聖書が伝える神は人格神

 聖書が語る罪は道徳的、倫理的なものではありません。つまり人間の具体的な行動の善し悪しから罪を考えるのではありません。罪は神との関わりで考えるものです。聖書が伝える神は人格をもった神です。漠然とした絶対的な存在というのではなく、人格を持った神です。人間と関わる神です。人間に語りかけます。創世記2章で神はアダムに対して語ります。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。 

  創世記6章5節には次のよう書かれています。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

 ここでは、神は地上の人間の様子を「ご覧になり」、人を造ったことを「後悔し」「心を痛められた」とあります。聖書が伝える神は、このように人格を持つ神です。

(2)罪とは、人格を持つ神との関わりにおけるもの

 神は人間を造られました。私たちはその被造物です。被造物として私たちは神との関わって生きるようにされています。人間は神と関わりながら生活を営みます。それが本来の人間の営みです。神との関わりぬきに生活を営むことはもちろんできます。神なしに生きる、それは人間の本来の営みではありません。

 神との関わりに生きることを拒む態度、神との関わりに生きることに不誠実な態度はみな罪です。神を信じないことは罪です。たとい神を信じていたとしても、神と人格的な関わりをしなければ、それは罪です。私たちに関わろうとされる神を拒むことになりますから。

 神との人格的な関わりに生きるために知るべきことがあります。第一に神と私との関係がいかなるものであるかを知ることです。聖書によれば、神は創造主、私たちは被造物。神は私たちの主、主なる神。私たちは神を主とするもの。あるいは神は父なる神、私たち信仰者は神の子。人間としての自分の立場を弁え、神と関わって生きることが人間の本来の歩みです。

(3)自分の罪を知るのは信仰生活に入ってから

 罪は神との関わりにおけるものです。ですから信仰生活を始め、神との関わりに生きるようになってこそ、自分の罪を知るようになります。つまり自分が神との関わりにおいて神に対していかなる態度を取るかという点で、ふさわしくない考え方をし、ふさわしくない行動をしていることに気づかされますし、気づきます。そして罪の赦しの恵みを受け取っていきます。

(4)神との関わりにおける罪とは

 神を信じるとは、神の御心を敬い、これを重んじ、従うことです。神に信頼することです。神の御心は聖書を読むことによって知ることができます。
 神の教えを重んじても神の心を重んじないことがあります。イエスはファリサイ派や律法学者たちを偽善者と批判しました。神の教えを守っているかも知れないが、神の心には無関心な人を偽善者とイエスは批判したわけです。使徒パウロも神の掟を守ることにおいて、自分は誰にも劣らないと豪語しましたが、イエスを救い主として遣わされた神を信じませんでした。つまり神の御心を知ろうとせず重んじなかったのです。後に自分は罪人の頭(かしら)であると語りました。

 私も神を信じ、神の御心を自分なりに大切にしてきたつもりでいましたが、神の御心を本質的には重んじていないことをある時、知らされました。それ以来、自分は罪深い者であると思っています。もちろん、イエス・キリストを信じ、私は義とされていることも信じています。私は罪深い者ですが、私のアイデンティティーは、罪赦され、神の目には正しい者、そして神の子です。

(5)罪の気づき

 聖霊の働きによって自分が罪人であることをグサッと教えられた経験がなく、頭で自分は罪人であると思っている人、頭で自分は罪を犯していると思っている人は、聖書の言葉と向き合い、自分がどのように生きているかを顧みることを勧めます。そして聖書の言葉に従う生活を勧めます。きっと聖霊があなたの罪を教えてくれると思います。

 

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もう咲いている? 散歩道にて

 

聖書に描かれている罪(14) まとめ(1)

 聖書に描かれている罪について紹介してきました。これらの聖句を踏まえ、罪について教えられることをまとめてみたいと思います。

1.人間は生まれたときから、罪の支配下にある

(1)アダムとエバの物語から

 アダムとエバは神の命令に逆らい、禁じられていた木の実を食べてしまいました。この物語は、もし私がアダムであったら、私も同じように禁じられていた木の実を食べたことを物語るもので、私も罪を犯す者であることを語っています。私は罪を犯す者として生まれたということです。アダムの物語は、私の物語です。

(2)ダビデの罪から

 詩篇51編には姦淫と殺人の罪を犯したダビデの祈りがあります。7節にはこう書かれていました。

わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。

 この聖句も、私たちが生まれたときから罪の支配下にあり、罪を犯す者であることを教えています。

(3)神は人間を罪を犯す者として創造されたのか

 人間は罪を犯すものとして神に造られたのでしょうか。もしそうなら、人間が犯した罪を神が責めるのは不当となります。人間は罪を犯すものとして造られたのではありません。
 神は人間を含めた世界を造られ、それらをご覧になったとき、「極めて良かった」と言われました。つまり人間は罪を犯す者として創造されたわけではありません。神は人間を自由を持つものとして造られました。自由を持つ人間の創造を神は「極めて良かった」としたのです。自由ということは、悪を行うことも行わないことも人間の自由であるということです。

 そしてどういうわけか、自由を与えられた人間は、罪を犯してしまうのです。自由な人間がなぜ、罪を犯してしまうのか。それは一つの謎です。罪を犯さないで生きることは人間には不可能です。神は人間に自由を与えました。それを神はよしとしたのです。神は人間を悪を決して行わないロボットのような存在には造られませんでした。

 神は自由な方です。神はご自身に似せて人間を造り、人間に自由を与えました。神は自由ですが罪を犯すことはありません。人間は神ではなく、限界をもつ存在です。命には寿命があり、能力も限界があり、全能ではありません。色々な限界をもつ人間は、自由な者として造られましたが、どういうわけか罪を犯してしまいます。人はなぜ罪を犯すのか。自由のもつ神秘、と私は考えています。あえて言うなら、神ならぬ人間は、神になろうとして罪を犯します。つまり物事を自分の思い通りにしたいと考えて生きていきます。そこに罪が生まれます。

 

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奈良は梅の木が多い? 散歩道にて

 

イエス様につながり結んだ実

 今ヨハネ福音書15章を読んでいます。ぶどうの木のたとえの箇所です。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(5節)

 それで私はどんな実を結んだのだろうかと考えました。信仰者として歩むときの実ですから、自分ですべて実を見ることができるとは限りません。神さまはすべてご存じだと思います。しかし自分でもこれは実かな、と思えることがあると思い、振り返りました。妻にも聞いてみました。

妻曰く

  • あなた自身が実よ。福音に生きる人とされたことは実。
  • そして私も実よ。
  • 牧会した最後の教会でのいくつかの事柄も実だと思うわ。

 神さまにも、実を教えてくださいと祈りました。すると中部教区通信が送られてきました。私が最後に牧会した金沢元町教会は中部教区に属しており、教区が発行した通信です。そこには金沢元町教会のことが書かれていて、「デボーションを通して祈祷会がさかんである」とあり、「実りがある教会です」と書かれていました。これにはうれしくなりました。

 牧師をしていたとき、ある一つの聖書の読み方を教会員の方たちに紹介しました。それをデボーションを呼びました。私自身は20年以上、デボーションを続けています。『御言葉に生きるための提案』のサイトには、私のデボーション内容を紹介しています。

 末っ子の息子も実について話してくれました。私には4人子供がいますが、「兄弟みんな仲がいい、それは実だと思うよ」と言ってくれました。息子は塾の講師をしていて色々な子供、家庭を見ているので、そう言ってくれたのだと思います。

 金沢元町教会に赴任して何年経ったかは覚えていませんが、年配の男性長老の方が、「先生が見えてから、教会がなごやかになりました」と言ってくださったことは覚えています。自分も役に立っているんだとはっきりと知らされたことは初めてだったので忘れられません。

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フキノトウ 散歩道で

 

説教を作る上での心得

 明日のG教会での礼拝説教の原稿ができあがりほっとしています。

 私が説教を作るとき心がけていることが一つあります。人間の言葉、特に神学者の言葉を引用しないということです。宗教改革者ルターやカルヴァンの言葉も引用することは控えます。それらがいかに信仰的な言葉とはいえ、人間の言葉だからです。祈りをもって著述した言葉かもしれませんが、説教を聞く会衆からすれば、人間の言葉です。

 そういうと、お前の説教はお前の言葉じゃないかと言われるかもしれません。確かにそうです。でも説教者は説教するように神から委託されて説教を語ります。そして説教はある意味、証言の言葉なので自ずと自分の言葉となります。説教者の言葉が、神の言葉として用いられるわけです。神さまは説教者という人間の言葉を用いられます。

 神学者の言葉を引用するとき、そこに一種の権威付けを求める傾向があると思います。○○がこう言っているから、だから・・・・。説教を聞く会衆は、神学者の名前を知らないし、名前を知っていたとしてもどんな人かは分からないことが多いと思います。もし引用したいなら、神学者の言葉を十分理解し、自分の言葉で言い換えればいいのです。生半可に引用すると自分のものになっていない言葉を語ることになります。

 昔先輩の牧師から引用するなら聖書から引用しなさいと教えられました。今はそれが本当だと思っています。説教を聞く会衆が聖書を読みたくなるように、聖書からの引用が大切だと教えられました。神学者がどんなに偉くとも、権威は聖書の言葉にあります。
 また超教派の集会に出て聞いた印象に残る説教がありました。極端に言えば、聖書の引用だらけの説教でした。でも聞いていて好感を持ちました。神の言葉としての聖書に対する信頼がそこにありました。

 

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タンポポ 散歩道で

 

自分の死を受け入れる理由

  最近の新型ウィルスの感染に関連して高齢者は重症化しやすいとの報道がなされています。大型クルーズ船に乗っていた二人の高齢者が亡くなったとの報道もありました。私も高齢者。万一感染すれば重症化する恐れがあるし、死が迫ってくることになります。

 先日新聞に作家の小池真理子氏が『夫の死に寄せて』という文を寄稿していました。

「彼が求めていたのは死に向かう際の、自分の心の安寧だけだった」

とありました。

「無情にも死を受け入れざるを得なくなった彼の絶望と苦悩、死にゆくものの祈りの声は、そのままわたしに伝わってきた」

とも書かれていました。彼女の夫は69歳で亡くなったそうです。

 自分の死を受け入れる、それはだれもが直面する大きな課題です。私の人生の一つの課題は、いかにして自分の死を受け入れるか、でした。年をとれば、生きることに疲れ、まあ死ぬのは仕方がない、と受け入れることができるようになる面があります。それに死ぬのは自分だけではなく、みんな死ぬ、と諦めるようになるかもしれません。諦める、私は大嫌いです。

 私はイエス様に従う、あるいはイエス様に倣う者となることを信条としています。それがどれほどできているかは、気にしません。成績をつけるなら、5点でも10点でもいいと思っています。その私が死を受け入れる理由は、

イエス様が死んだから、

です。イエス様が死なれた以上、私も死なないわけにはいかない、と考えるわけです。死ぬことも、またイエス様に倣うという考えです。仕方なく死を受け入れるのではなく、受け入れざるをえなくて受け入れるのでもなく、死もまたイエス様に倣うのです。今のところ、これ以外に自分の死を受け入れる理由は見当たりません。

 私の場合には続きがあります。イエス様が復活されたので、イエス様に倣い私も復活させていただく希望があります。

 

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春の到来(オオイヌノフグリ) 散歩道にて