クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

実はイスラエルも(1)その発端

 旧約聖書に登場するイスラエルの民はアイデンティティーに生きるように神に召された民でした。神は彼らと契約を結びました。神は彼らを「神の民」として生きるよう召したのでした。神の民、それがイスラエルの民のアイデンティティーです。イスラエルの民が自らのアイデンティティーにどのように生きたのか、旧約聖書を見てみたいと思います。

 事の次第はこうです。イスラエルの民はエジプトの国で奴隷として苦しんでいました。その苦しみの中から、イスラエルの民は神に助けを求めて叫んだのです。苦しみの中にある者の叫びを神は軽んじません。彼らの叫びを受けとめた神はモーセを選び出して言います。

出エジプト記3:7~10
わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。

 ここには約束があります。神はイスラエルの民をエジプトの王から救い出し、乳と蜜の流れる豊かな土地へと連れて行くとの約束があります。神はこのような救いの約束をもってイスラエルの民に現れました。そして神はさまざまな大いなる御業を行いイスラエルの民をエジプトから救い出し、彼らを導き、シナイ山の麓まで来ました。そこで神はモーセを通してイスラエルの民に語られます。

出エジプト記19:4~6
あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。

 神はイスラエルの民に、神の宝である民として、神の民として生きるように招かれたのです。この後神は、イスラエルの民に十戒を示されます。そして民は神との契約を結びます。

出エジプト記24:5~8
彼(モーセ)はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」。

 神とイスラエルの民は契約を結びました。神はあなたがたの神となると約束し、民は神の言葉を守り、神の民となりますと約束したのです。神と民、双方が約束し、契約が成立しました。神がイスラエルの民の神となることは、神がイスラエルの民を祝福することを意味します。

 モーセの十戒の二番目の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない」に関連して神はこう語ります。「わたしを愛して、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。

 神はイスラエルの民を「神の民」というアイデンティティーに生きるよう招かれました。イスラエルの民は神の戒めを守り、神の民として生きること、つまりアイデンティティーに生きることを神に約束したのです。

 

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散歩道にて

 

賛美はすばらしい

 最近インターネットの youtube で讃美歌を聞いています。特に英語の讃美歌です。礼拝でなじんできた讃美歌を英語で聞き歌っています。なぜ英語の讃美歌を聞いているかというと、一つは原語の歌詞を味わいたいからです。日本語の讃美歌は、英語の歌詞を訳しています。そのまま訳すと字数が多くなります。メロディーにあてはめようとすると英語の歌詞を要約しなければなりません。そこでもともとの歌詞を味わいたいと思ったのです。

 讃美歌312番「慈しみ深き」の原語の歌詞はこうです。

What a friend we have in Jesus,
All our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry
Everything to God in prayer!
Oh, what peace we often forfeit,
Oh, what needless pain we bear,
All because we do not carry
Everything to God in prayer!

私たちにはイエスというすばらしい友がいる、
私たちのすべての罪と悲しみを担ってくださる!
何という特権だろう、すべてのことをたずさえて神に祈ることができるとは。
なんと私たちはしばしば平安を失うことだろう、
なんと私たちは必要のない痛みを負うことだろう、
それはすべてのことをたずさえて神に祈らないからだ。
(私訳) 

  十字架の救いを賛美する歌と、天国の喜びを賛美する歌を特に原語で歌いたいと願っています。救いの喜びと天国の希望をイメージとして持ちたいからです。私は理屈っぽい人間です。理屈には限界があります。信仰を心で喜びたいのです。牧師を引退し、時間のゆとりができたからできることです。喜んで神さまのもとに行けるように自分の信仰を養いたいと願っています。

 英語の賛美は主にアメリカ人の投稿だと思いますが、若い人たちがコーラスしているのを聞くと励まされます。世界にはたくさんのクリスチャンがいるのだと。

 

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マツバウンラン 北陸では見なかった

 

罪人の再生の始まり(16)アイデンティティーのまとめ

 クリスチャンのアイデンティティーについて書いてきました。他にもアイデンティティーはあると思います。たとえば「キリストの体(教会)の部分(メンバー)」。これまで信仰者の個人的な面のアイデンティティーを紹介してきました。

  • 罪から解放された者
  • 新しく生まれた者
  • 神の前で正しい人
  • 聖霊を内に宿す人
  • 神の子
  • 新しい命を持つ者
  • 聖なる者
  • 神のもの

 これらはクリスチャンの色々な側面を述べたものです。たとえば、クリスチャンは新しい命を与えられ、新しく生まれた者とされ、神の子と呼ばれます。新しい命を与えられるとは、聖霊が内に宿ることといえます。

 あるいは、罪を赦され正しい者とされ、罪から解放されて生きる者とされました。 そして世の人々から区別され、神のものとされ、神との交わりに生きる者とされました。

 このアイデンティティーに生きる時、このようなアイデンティティーを持つ者として生きることを考えるときに、大切なことがあります。それはイエス様の次の言葉にあります。

マタイ4:4
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」。 

  神の言葉こそ、クリスチャンを支え、生かします。神の言葉はアイデンティティーに密接に結びついています。

  • クリスチャンは神の子なので、父なる神の言葉に従って歩みます。
  • クリスチャンは新しく生まれた者であり、その結果、神の言葉によって生きることを始めます。神の言葉によって生きる、そこに新しく生まれた者としてのクリスチャンの姿があります。
  • クリスチャンの内に聖霊がおられ、聖霊の導きにより、クリスチャンは聖書の言葉を神の言葉と信じ、神の言葉によって歩みます。
  • クリスチャンは、神の言葉によって歩みます。しかし時に神の言葉に反抗したり背いたりします。神の言葉に従うことをないがしろにします。つまりクリスチャンも罪を犯します。しかし神さまに赦しを求めるなら、神さまは赦しを与え罪を咎めることはありません。神の言葉によって歩む中で、罪から解放されていきます。

 クリスチャンとしてどのように生きるか、それは各人の自由です。アイデンティティーなんか考えずにクリスチャンとして生きている人もいます。クリスチャンとしてどのように生きるか、それはその人の自由です。しかしその歩みがクリスチャンとしてふさわしい歩みかどうかは、それぞれが自己吟味すべきです。

 アイデンティティーを理解し、これを受け入れ、アイデンティティーに生きることは神さまの御心にかなうことであり、聖霊の実(愛、喜び、平安、・・・)を結んで生きることにつながると私は信じています。「私は罪深い者」という誤ったアイデンティティーからも解放されます。

 

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大根の花 散歩道で

 

罪人の再生の始まり(15)アイデンティティーの確認(神のもの)

 今回考えるクリスチャンのアイデンティティーは「神のもの」です。あるいは「キリストのもの」です。「神のもの」だからといって、自由を失い、神の命令に縛られるというわけではありません。私たちは神の所有物になるわけではありません。

 むしろ神さまは、私たちを御自分のものとして、大切にしてくださいます。愛してくださいます。神さまは私たちの人格を大切にしてくださいます。クリスチャンは神さまの目に尊い存在です。

イザヤ43:4
わたしの目にあなたは価高く、貴く

 私たちは「神のもの」というとき、私たちは神の家族の一員にされたというイメージがよいかと思います。神を父とする家族です。父なる神は家族の一員とされた子を愛し、育て、守り、導きます。成熟した信仰者へと育てます。子は神の家族に属することによって、安心して生きていくことができます。また神に祝福された人生を生きることができます。

エフェソの信徒への手紙1:13~14
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

ペトロの手紙2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

テトスへの手紙 2:14
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。  

ローマの信徒への手紙1:5~6
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。 

 

 神は私たちに「愛する子よ」と呼びかけてくださる方です。「子よ、わたしはあなたと共にいる、恐れるな」と励ましてくださる方です。私は神さまのもの、安心してすべてを神さまにゆだねて生きることができます。

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桜の実 散歩道

 

 

あらためて福音を知る

 ヨハネ福音書を読み終えて、今コロサイ書を読み始めています。先日読んだのは次の箇所です。

コロサイ1:13~14
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 私の大好きな聖句です。この箇所は福音を明確に語っていると思います。第一に御子による罪の贖いに基づく罪の赦し。第二に信仰者は闇の力から救われて御子の支配下に生きることができることです。

 第一の罪の赦しについては、礼拝説教でもしばしば聞くところの福音であり、自分の罪の赦しを感謝を持って受けとめている信仰者は多く、よく理解できることだと思います。しかし二番目の闇の力からの救い、および御子の支配下に生きることができることはあまり語られていないような気がします。「闇の力」とは何のことでしょうか。

 人間の心には色々な思いが湧いてきますが、その思いは三種類あります。一つは神から来る思い。第二に人間の心から生じる思い。第三に悪魔から来る思い。私たちが闇の力に支配されているとき、悪魔から来る思いで悩まされ、平安を失います。

 悪魔から来る思いの代表的なものは「恐れ」です。さまざまな恐れがあります。私自身は、死の恐れ、失敗することの恐れ、病気への恐れ、思い煩いなどで悩み苦しみました。平安がなくなります。人それぞれに恐れを感じるのは決して自然なことではなく、悪しき力の支配下に置かれているからです。つまり人間は全能ではなく自分の力に限界があり、物事を自分の思い通りにはできません。そこから思い通りにならなかったらどうしよう、との恐れや不安が生じてきます。

 聖書を読むと分かることは「恐れるな」と神が命じられることです。イエス様も弟子たちに対して「恐れるな」を命じられます。イエス様は弟子たちに次のように語られました。

ヨハネ14:27
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。 

  また悪魔は、自分の力に信頼して生きろ、自分の力を信じろ、プライドを持て、とささやいてきます。すると自分に対する自信のなさが感じられ、色々な思いが湧いてきます。劣等感、妬み、憎しみ、悪口(批判)、プライドが傷つけられ赦せない思い、などが生じてきます。人によっては、弱みを見せるのをよしとせず、嘘をついたり、ごまかしたり、傲慢になったりします。自分自身を受け入れることができなければ平安を失います。

 さらに悪魔は私たちを誘惑し、罪へと誘います。汚れた思い、よこしまな思い、利己的な思いに導かれ、罪を犯しまた悪習慣に陥ります。自分を責めたりします。やはり平安を失います。

 私自身は死を恐れ、この恐れに囚われました。いつか死ぬと思えば、生きることの空しさを感じました。生きる喜びを失いました。学生時代には劣等感に囚われ、牧師になっても能力の欠如に悩みましたし、牧師として批判を受けてはいけない、との思いにもなり、苦しみました。平安がなかなか心に宿りません。さらに牧師だから、~しなければならないとの縛りにも苦しみました。闇の力、悪魔の支配下に置かれていたのです。

 しかし御子の支配下に生きることができるとの福音を知りました。クリスチャンのアイデンティティーを知りました。自分を受け入れ、自分を愛することができるようになりました。自分を愛することができてこそ、自分を愛するように隣人を愛することができるのではないかと思います。今は喜びと平安が心の底にいつもあります。

 聖書は、私たちは御子の支配下に置かれていると告げます。御子は死を打ち砕き、罪を打ち砕きます。この力が、私たちに対して恵みとして働きます。またクリスチャンのアイデンティティーは自分を受け入れることを可能にし、自分自身のことで悩むことがなくなります。まさに「福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマ1:16)です。

 私が福音について目を開かれた聖書箇所を紹介します。最初はパウロが主イエスから福音宣教の使命を与えられたときの主イエスの言葉です。

使徒言行録26:17~18
わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。

ローマ 6:14
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

ペトロ一2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

  

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マンネングサ 散歩道 外に出て自由に咲きたい?

 

罪人の再生の始まり(14)アイデンティティーの確認(聖なる者)(つづき)

 神がモーセの兄アロンとその子らを聖別したことが出エジプト記に書かれています。

出エジプト記 28:41
これらの衣服を兄弟アロンとその子らに着せ、彼らに油を注いで祭司の職に就かせ、彼らを聖別してわたしに仕えさせなさい。

 アロンとその子らは聖別され(聖なる者とされ)、他の人々とは区別されました。つまり彼らは神に仕える者とされたのです。具体的には祭司の職に就き、宗教儀式を担う者とされました。そのために油を注がれ、聖別されました。

 またアロンとその子らが身につけるものについてはこう定められました。

出エジプト記 29:21
また、祭壇の上の血の一部を取り、更に聖別の油の一部を取って、アロンとその衣服、更にアロンの子らとその衣服に振りまく。そうすれば、彼自身も衣服も、また彼の子ら自身も衣服も、聖なるものとなる。

 アロンやその子らが祭司として務めを果たすときに身につける衣服も聖別され、祭司の務めを果たすときにのみ着る祭服とされました。つまりこの祭服は他の衣服とは区別され、祭司がその務めを果たす時に用いられる特別な衣服とされました。祭司が神に仕える時に用いられる特別な衣服とされました。

出エジプト記 29:44
わたしは臨在の幕屋と祭壇を聖別し、またアロンとその子らをわたしに仕える祭司として聖別する。

 神が聖別したのは人間や衣服だけではありません。神は幕屋(大型のテント)を造ることを命じました。幕屋の中には祭壇が置かれています。幕屋も祭壇も聖別され、聖なるものとされました。神に礼拝を献げるために用いられるものとして聖別されたのです。

 さらにイスラエルの民自身が聖別されます。

 出エジプト記 31:13
あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。

 イスラエルの民は聖別され、神の民となります。彼らは神の民として生きることになります。エジプトで奴隷として苦しんでいた民は、神に助けを求め、エジプトから救われました。シナイ山のふもとで彼らは神と契約を結び、神の民として生きることを決断しました。

 聖別される、聖なるものとされるということは、神に属するものとなることを意味します。衣服や祭壇などは宗教儀式に用いられ、聖別された祭司は神に仕え、聖別されたイスラエルの民は神の民として歩むものとされました。

 クリスチャンのアイデンティティーが「聖なるもの」であるという時、クリスチャンが世の他の人々から区別されて、イエス・キリストを信じ、神との交わりに生きる人であることを意味します。聖書の信仰は、神との交わりに生きる信仰です。繰り返しになりますが、聖なる者とは、世の人々と区別された特別な人々であり、イエス・キリストを信じ、神との交わりに生きる人のことを指します。これが「聖なる人」のもともとの意味です。

 ですから新約聖書では、信仰者あるいは教会員と書いてさし支えないところで聖なる者という言葉が使われています。

 

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ツツジの美しい季節 散歩道にて

 

自分の死をどう考える?

 今朝の新聞にコロナの感染を防ぐために病院で見舞いが行えなくなったので、自宅で最後を迎える方がいると書かれていました。家族に見送られずに病院で亡くなるより自宅での死を望まれるわけです。一人の女性の記事が印象に残りました。

 彼女の父はガンで入院をしていました。ある日病院から「明日から面会禁止」ですと告げられました。2週間後、父の容体が急変し、病院から連絡があり、見舞うことが許されました。幸い、持ち直し、今はスマホを使ってビデオ電話で話をしているとのこと。その彼女がこう述懐しているのです。

「父には死への不安や恐怖もあるはず。先が見えない中で電話ぐらいしかできないのがつらい。わがままかも知れないけど会いたい」。 

  これを読んで、私はあらためて死の受けとめかたが人それぞれであると思いました。新聞に登場したこの女性は、死の不安、恐怖は、死に臨んでやってくるものと受けとめているようです。死の不安・恐怖というものが人間にあることを彼女は知っています。彼女にとっては自分の死は遠い先のことです。死が問題になるのは、自分の死が近づいたときなのだと思います。次はキリスト教の伝道パンフレットに書かれていたある神学者の文章です。

私は中学生時代に48歳の若さで父が病死したこともあって、死を恐れる気持ちを持って青少年の時期を過ごしました。教会を初めて訪ねたのは、高校生の頃でしたが、その動機としてもこの問題があって、言葉で明確に言い表してというのではありませんでしたがいつも心の底に「死より確かなものはないのか」という問いを抱えていました。

 「死」というものがあると知ったとき、死を恐れる思いが心に湧いてきて、これを何とか解決したいと考える人もいます。そうしないと死に臨んだとき、大変です。「死ぬのが怖い、怖い」と叫びながら死を迎えるというのは絶望ですから。

 世の人たちは自分の死をどのように考え、死を迎えているのかと思います。これは微妙なことなので、なかなか人にどんな考えでいるのか私は聞くことができません。これから書くことは私の想像です。

 人はある程度年を取ると、生きることに疲れを覚え、死を受け入れやすくなるのだと思います。死んだ後どうなるのか分からなくても、みんな死んでいくのだから、まあ何とかなるだろうと思うのです。死ぬときの苦しみだけは避けたいと願います。あとは運命と割り切り死を受け入れるのではないかと思います。信仰を持っている人は明確な希望に生きていると思います。

 私は、幼い頃祖母が亡くなった結果、死を恐れるようになり、これが信仰を求める結果となりました。また神さまは牧師へと召しだし、死を見据えて信仰に生きる道を探求させてくださいました。感謝です。死を考えることは生きることを考えることになると思っています。

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緑が美しい季節の興福寺