クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神に似せて造られた人間

 創世記は神による天地創造を語ります。その中で神はご自身に似せて人間を造られました。神にとって人間とはどのような存在なのでしょうか。

 御自分に似せて造られたのですから、神には人間に対する特別な思いがあるはずです。遊びでいい加減に、また思いつきで人間を造ったとは思えません。御自分に似せて造ったのはなぜなのでしょうか。人間が神に似ているとどうなるのでしょうか。神の何が似ているというのでしょうか。

 神は自由なおかたです。人間は自由意志を持つ者として造られました。神は他者と関わりを持つおかたです。人間は他者と関わりをもって生きる存在として造られました。神は何よりも人間と関わりを持つことを願われました。そして人間は言葉を使う者として造られました。神は語るかたであり、人間も語る者とされ、言葉によって人間は神と関わり、他者と関わる者とされました。

 以上は、創世記の最初に書かれています。アダムとエバは、夫婦として結ばれ一体となりました。互いに関わって生きる者とされました。また神からは、園の中央にある善悪の知識の木の実を食べてはいけないと警告されました。最初に造られた人・アダムはエバおよび神との関わりをもって生きる存在であり、自由を与えられた存在でした。
 神がこのように人間を造られたことは何を意味しているのでしょうか。神はなぜ、このように人間を造られたのでしょうか。もし私たちが天地を造られた神、そして自分もこの神によって存在していると信じるなら、神について何を信じることができるのでしょうか。神とはどのようなお方なのでしょうか。

 旧約聖書と新約聖書を読んだ者として、神は愛であり、神は人間を愛するかたである、というのが私の答えです。神に似せて造られた人間が愛するものとなるのが神の願いです。神に似せて造られた人間は、何よりも神に愛される人間です。神に似せて造られたからには、人は自分が神に愛される存在であることを信じることができます。

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イシミカワの実

 

キリストにより豊かにされた私(7)永遠を思う心

コリント二 8章9節
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 キリストによって豊かにされた私の7回目は<永遠を思う心>です。

 私が信仰を求めたのは、死の恐れと空しさからの救いを求めたからです。信仰を持たない私には永遠を思う心はありませんでした。死の向こうに何かあるとは思えませんでした。仮に死後の世界を信じるにしても、それなりの根拠がなければ、受け入れることはできませんでした。

 クリスチャンになり、イエス・キリストの復活を信じたことが神の国を信じることにつながりました。キリストの復活は歴史的な事実であり、私自身の復活を信じる根拠となりました。若い頃読んだ本に「彼岸の世界は人間の願望が造りだしたものである」と書いてあるのは心に残っています。私はキリストの復活という歴史的事実を根拠として私の復活を信じています。単なる願望を信じているわけではありません。

 聖書に神は私たちに永遠を思う心を与えたと書かれています。

コヘレト 3:11
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

 永遠を思う心が湧き上がってきたのは、年をとってからです。私には、自分の死を喜んで受け入れたいとの思いがあります。そのためには死んだ後何が起きるのかを知る必要があります。そしてそれを楽しみにできるなら、喜んで死を受け入れることができます。死の床に着いたなら、いよいよ、これまでの人生では見たことがない、言葉では言い尽くすことができない素晴らしい光景を目にすることができると信じ、最後を迎えたいと思っています。

ヘブル11:1
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 私にとって永遠を思うとは、聖書に描かれている終わりの日の出来事を思いめぐらすことです。一番心に留めている聖句を紹介します。

コリント一 13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

 神さまを見る、わくわくします!

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アザミの花 2021.11.14

 

御国への一日の旅路を歩む

 私は毎朝祈るとき、今日も御国への一日の旅路を歩むことができますようにと祈ります。一日の終わりには、御国への一日の旅路を歩むことができたことを感謝しますと祈っています。でもこれは型どおりの祈りというか、決まり文句の祈りになっています。このことは老いを生きる日々の単調さと無関係ではありません。老いの日々が単調だから、祈りも単調というか、型どおりの言葉を使う祈りになってしまいます。

 単調であることには気をつけなければならないと思いました。昔エジプトの国を脱出したイスラエルの民は自由に生きることのできる土地を目指して荒野を旅しました。荒野の旅は、おそらく退屈というか、単調な旅だったと思います。刺激といえば、飲み水がなくなったとか、食べ物がなくなったとか、悪いことが起きることです。これでは旅をすることが嫌になってしまいます。イスラエルの民は不信仰に陥ってしまいました。

 そこで単調ではあるにしても、心からの感謝の祈りができるような日々を送りたいと思います。そこでどうしたらいいのか、と考えます。

 先日ブログに今日の一日は当たり前の一日ではないことを書きました。私は今妻と二人の生活をしていますが、いつの日か、どちらかが召され、どちらかはひとりの生活をすることになります。すると二人で一日を共に生きることができることは当たり前ではなく、感謝となります。

 型どおりの感謝にしないためには、一日の生活の中に気づきを持つことが大切だと思いました。感謝できることに気づくということです。私たちが漠然と生きるのではなく、生活の中に起きることに敏感になり、感謝できることを発見するようになるなら、一日の終わりの感謝の祈りが具体的な祈りとなり、型どおりの祈りではなくなります。でも無理矢理に感謝にこじつけることはしないことにします。今日はこんなことを考えました。

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タチツボスミレが咲いていました

 

 

妻の誕生日

 朝食の時妻が「今日何の日か知っている」と聞いてきました。「何の日だろう?」と言うと「私の誕生日」。まったく意識していませんでした。パソコンの画面には、用事の日程を表示していて忘れないようにしていますが、妻の誕生日はそこにはありませんでした。

 それで久しぶりに外食しようと提案し、妻の行きたいところに行くことにしました。社会福祉法人が運営している カフェ & レストランでゆっくり昼食の時を過ごしました。標高400メートルくらいの場所にあり、野の花を見るための散歩にも適したところにあります。この社会福祉法人が運営している別の施設で作ったパンも販売していて、パンを買いに時々来るのですが、今回は食事にしました。

 午後は図書館に行って本を借り、帰宅してから夕食のカレーを作りました。金曜の夕食は私がスパイスを使ったカレーを作ることになっています。その結果何が起きたかというと、朝食は毎日私が作っていますので妻は今日、食事の用意をしなかった一日を過ごしたことになります。旅行の時以外に、こんな日は結婚して以来はじめてかもしれません。

エフェソ 5:25
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

 この聖句を私は自分の心に刻んでいます。

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教会への道で

 

キリストにより豊かにされた私(6)感謝する心

コリント二 8章9節
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 キリストによって豊かにされた私の6回目は<感謝する心>です。

 クリスチャンでなくても、日々の生活の中で感謝の思いを表して生きている人は多いと思います。信仰のない人が「自分は何ものかに生かされていると感じて、感謝している」というのを何度も見聞きしています。感謝する心は神さまに似せて造られた人間に備わっているのかもしれません。でもある時ふと読んだ新聞記事に、結婚生活を始めて間もない女性が、夫が感謝の言葉を口にしないのに気づいたと書いていました。

 私も信仰を持つようになって、神さまに感謝するようになりました。感謝の第一は、イエス・キリストを救い主として信じる信仰へ導かれたことへの感謝です。この感謝は毎日祈るわけではありませんが、心の底にあります。

 ある時「数えてみよ主の恵み」という聖歌を聞いて、日々感謝できる恵みを数えることをしてみました。でも続きませんでした。無理がありました。自分の身に起きたよいことを感謝するだけが感謝ではないと思います。

 神さまに感謝の応答をすることが大切だと思っています。神さまの教えに従うのも感謝からです。神さまの教えは私たちを祝福するためにあると信じて、どんな教えも自分の生活に当てはめて具体的に従うようにしています。感謝の心が私たちの生き方を変えていきます.

 私が牧師に召されたことが関係していますが、キリストの十字架の恵みとはそもそも何なのかを追求することも感謝の応答と考え、牧師引退後の生活の課題としています。

そして一日の終わりには、自然体で一日を振り返り神さまへの感謝を献げています。感謝する心は平安な心と結びついていると思います。

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野菊(ヨメナ)

 

キリストにより豊かにされた私(5)平安な心

コリント二 8章9節
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 キリストによって豊かにされた私の5回目は<平安な心>です。

 第一に死の恐怖からの平安です。幼い頃に祖母が亡くなり、死んだ人は二度と姿を現しません。死んだらどうなるのか、幼心に死は恐ろしく、私の心から平安は失われました。死を考えないように生きようとしましたが、本質的な解決ではありません。ふとした折に死の恐怖におののきました。

ヘブライ人への手紙 2:14~15節
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 イエス・キリストを信じ、平安が与えられました。

 第二に失敗の恐れからの平安です。私はある意味で優等生でした。努力して、それなりの成果を上げてきました。牧師になり、色々な課題に直面するようになりました。こうすればいいという解決はあるとは限りません。すると失敗することへの恐れに縛られ、どうしたらうまく問題・事態を乗り越えることができるのかと考えます。すると思い煩いが始まります。時にどうしたら逃げることができるだろうか、などとも考えます。失敗してはいけない、問題をちゃんと解決しなければならない、そう考えると苦しく辛くなります。

 ある問題に直面し、見事失敗しました。そこで思いました。物事を何でもうまく対処し、相談を受けたらちゃんと解決してあげなければならないと考えるのは傲慢であると知りました。失敗はしてもいい、でも逃げない。神さまが共にいて導いてくださると信じ、平安が訪れました。

 第三に信仰。神さまは「恐れるな」と私たちに呼びかけてくださる方です。神さまに信頼し、御心に従う歩みをするなら、結果がどうなっても神さまが導いてくださると信じることにしました。私はプライドを捨てました。神さまに信頼し、御心に従う歩みをしたとき、どんな結果になってもそれはわたしにとって良いものであると信じ、受け入れることができるようになりました。私の心の底には、いつも平安があります。

 第四に弱さを誇る。弱さを認めるところに平安があると私は信じています。

コリント二12章9節
キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

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紅葉した柿の葉

 

A長老とBさんの対話(21)罪を犯すよう働きかける力

「A長老、こんにちは」

「Bさん、こんにちは。お変わりありませんでしたか」

「はい、神さまに守られ、元気に過ごしています。前回、A長老は最後に、神さまに喜んで従いたいと思う心を与えてくださるとしたら、それを求めるかどうか。どうですかと聞かれました」

「そうでしたね。それでどうなんですか」

「私には神さまに従いたいと思う心はあります。でも同時に、神さまの教えによっては、その教えには従いたくないと反発する心もあります。もし喜んで従いたいと思う心が与えられたら、従いたくない教えにも従うようになるわけですね」

「はい、そうです。喜んで従うようになる、すばらしいことだと思いますがどうなのでしょう」

「今の私からいうと、自分が自分でなくなるようで怖いです。何のためらいもなく神さまに喜んで従う人間になったら、どこか知らないところへ連れて行かれたような、自分が自分でなくなるような気がします。マインドコントロールされているような感じになります」

「そうですね。その気持ち、よく分かります。自分が別人になってしまうようで簡単には受け入れることができないわけですよね」

「はい、その通りです」

「ちょっとよく考えてみたいと思うのです。Bさんは、従いたくないと思ってしまう神さまの教えをどう受けとめているか、ということです」

「どういうことですか」

「つまり、そんな教えには従いたくないと全く拒否しているのか、本当は従いたいと思うのに同時に従いたくないという思いもあるのか、どちらなのかということです」

「それなら後者です。従いたいという思いはあります。でも反発する思いもあるんです」

「それはよかった」

「何がよかったのですか」

「Bさんは、信仰者として新しく生まれていることがはっきりしたからです」

「どういうことですか」

「Bさんは、神さまの教えに従いたいと考えています。それはBさんが新しく生まれた信仰者であることを示しているからです」

「そうなんですか?」

「だって、Bさんが従いたくないという思いが出てくる神さまの教えを世間の人はどう受けとめると思いますか」

「受け入れようとはしないと思います」

「その通りです。でもBさんには従いたいと思う心があります。つまりそれはBさんが洗礼を受けて新しく生まれ変わったことを示す証拠です。つまりBさんはクリスチャンとして新しく生まれ変わっているということです」

「なんか嬉しくなってきましたよ」

「そうですよ、新しく生まれ変わっている、嬉しいことなんですよ。これは神さまの救いの御業の結果だからです」

「でもそれなら、なぜ、従いたくないという反発心があるのですか」

「生まれ変わったら、なぜ反発心があるのか、疑問に思いますよね。生まれ変わったからといって、私たちの心が全く神さまに従う心になったわけではないのです。先ほど、神さまに喜んで従う心が与えられるなら、自分が自分でなくなるようで怖いとおっしゃいましたよね」

「はい」

「だから私たちが生まれ変わったからといって、無条件に喜んで神さまに従う人間になったわけではないのです。それでは人格改造されたことになります。神さまはそんな無茶はなさいません」

「それはよかったです」

「ここで是非知って欲しいことがあります。それは、この世界には、私たちに罪を犯すように働きかける力があるということです。犯罪を犯すように働きかける力ではありません。神さまに背くように働きかける力です」

「そんなものがあるんですか。初めて聞きます」

「私も教会の聖書の学びで教えられました。創世記にアダムとエバが、神さまから取って食べてはいけないと禁じられた木の実を食べた話がありますね」

「はい知っています。私が彼らだったら、私は食べないという自信はありません」

「あの物語に出てくる蛇は、私たちに罪を犯させようと働きかける力を象徴しています。蛇は『それを食べると神のように賢くなることを神は知っている』と言っただけです。それは暗黙の内に神はあなたがたが賢くなるのを望んでいないよと語ります。こうして食べるようにそそのかしています。食べなさいとは言っていませんし、食べるように強制してもいません。食べたのはあくまでもアダムとエバで、彼らは自ら手を出して木の実を取って食べたのです」

「神のように賢くなると知ってアダムとエバは食べたということですか」

「そうです。賢くなりたいという欲が彼らの中に湧いてきて、食べてしまったわけです」

「なかなか深い物語なんですね」

「そうです。この世には色々な誘惑がありますね。誘惑もまた私たちを罪に誘う力といってよいと思います。私たちのうちに神の戒めに反発する思いがあるのも、私たちは自由でありたい、なぜ、私の自由が抑えられるのか。私は自由でありたいとの思いがあるからです」

「たしかに自由を抑えられるのはいやですね」

「あるいは、神であろうと人からであろうと指図されるのはいやだという人間のプライドもあります」

「そのプライドがあるから神の教えに従いたくないという思いが生まれてくるのですね。私はなぜ、神の教えに反発したりすることがあるのか、少し考えさせてください。今日は有難うございました」

「お元気で。さようなら」

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オオジシバリ タンポポの仲間