本日のメッセージ(2007.6.10)
コリント一 7:1〜7 夫婦にとって大切なこと
7:1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
7:2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。
7:3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
7:4 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。
7:5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。
7:6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。
7:7 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
今日の聖書は、「性の交わり」について語っています。
「男は女に触れない方がよい」(1節)。
「触れる」とは、性的関係を持つことを意味します。コリント教会の人々がパウロへの手紙の中で「男は女に触れない方がよい」と書いたようです。パウロは「男は女に触れない方がよい」と同意を与えていますが、「しかし」と述べて、コリント教会の人々の考えを訂正しようとしています。
パウロの生きていた時代背景を考える必要があります。ギリシャは哲学が盛んな地域でした。ストア派というグループがありますが、禁欲を勧めました。言うまでもなく性交渉は、禁欲の対象になります。禁欲は人格を高めるのに大切という考えがありました。
「哲学者は結婚すべきか、あるいは未婚でいる方が知恵の探求によりよいか」
を議論していたようです。禁欲主義、禁欲運動は、古代地中海世界に影響力を持っていたのです。
そういう世界の中で信仰を得たコリント教会の中には
「男は女に触れない方がよい」
「性の交わりはもつべきでない」
という考えをもつようになった人々がいたようです。
「体も霊も聖なる者になろうとして」(7:34)
とあります。体も聖なる者になるためには、性の交わりはいけないと考えたのです。
聖書には「肉欲」「情欲」という言葉がでてきます。これらの言葉は、性的欲望をも意味し、私たちが欲望に支配されやすいことを語っています。このことも性交渉を否定的に考えさせたようです。
今日の段落は、夫婦は性的関係を持ち続けなさいと語っています。そんなこと、なぜわざわざ言わなければならないのか、不思議に思います。それは今述べたように、性交渉を否定する考え方が教会内にあり、しかもそのために、離婚する人もいたようです(11〜12節)。
「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」(2節)。
これは結婚の勧めではなく、夫婦関係を保ちなさいとの意味です。夫婦のどちらかが、性交渉はしない方がよいと考え、相手の求めを拒んだらどうなるか、です。
「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです」(5節)
とあるように、相手は別な異性と関係を持つことになり、みだらな行いをする結果になる可能性が生じます。みだらな行為を避けるためにも、夫婦の性の交わりを否定してはいけないのです。
「夫は妻に、妻は夫にその務めを果たしなさい」(3節)
「互いに相手を拒んではいけない」(5節)
も、結婚している人々が夫婦の交わりを持ち続けるように命じています。
「祈りに時を過ごすためにしばらく別れ」(5節)。しばらくの期間、祈りに集中するために別々に生活し、性の交わりをもたないことをパウロは認めますが、「また一緒になる」という条件をつけて、夫婦関係を維持すること、性的関係を持ち続けるように語っています。
パウロは、まず、みだらな行為を避けるために、夫婦が性の交わりを否定的に考え、これをやめるのはいけない、と述べたのです。
さらに、夫婦は一体であるから、という理由で、性の交わりを否定的に考える間違いを指摘します。
「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです」(4節)。
夫も、妻も自分の体を自分の意のままにする権利がないのです。自分の体を意のままにする権利は相手が持っているというのです。通常の常識からすれば、私の体は私のもの。あなたの体はあなたのもの、となるのでしょう。でもパウロはそうは言いません。自分の体に対する権利は相手が持っているというのです。
結婚について聖書は、夫婦は一体であると語ります。一体とは自分を相手に献げることを意味します。夫婦は互いに相手に仕えます。仕えるとは、相手のしもべになることです。また夫婦は、生活を共有し、それぞれの体も共有するのです。だから、相手が体を求めてきたら、それを拒んではいけないのです。体は相手のものだからです。
これは相手が求めたときは、いつでも応じなければいけないということではありません。疲れている相手に性の交わりを要求するのは思いやりに欠けます。4節も夫婦は、性的関係は持ち続けるのが原則だと述べているのです。
信仰者が聖なる者となるのをセックスは妨げると考えるのは間違いなのです。パウロの生きていた時代を考えることが7章を読むには必要なことです。現代でも、夫婦が性の交わりを持つことは大切なことです。それは子供を得るための手段ですが、それだけではありません。
夫婦が体の交わりを持つ結果として、子供が生まれるとどうなるでしょうか。夫婦は父母として、つまり親として協力して子供を育てる責任を負います。夫婦は、親として一致して、子を育てます。親としての責任を二人で負うのです。セックスは、それを行う男女の一体性を要求するものなのです。セックスは結婚が前提なのです。
性の問題は、その時代の風潮に影響を受けます。現代は、私の体は私のもの、といってセックスが自由に行われる傾向があります。性の交わりが何を意味するのか、理解されないままに不幸なセックスが続けられています。
セックスは夫婦の愛と喜びの表現です。だから、相手の求めに応じることが大切です。それは相手の喜びに仕えることにもなるからです。夫婦は「その務めを果たす」とありますが、愛されている喜びを相手に与える、それが性の交わりにおける務めなのです。
性の交わりは、夫婦が信仰者として聖なる者になるために大切なものと言うこともできます。相手に仕える訓練になるからです。相手を真に愛する訓練になるからです。性の交わりは、自分の性欲を満たすことが目的の行為ではありません。夫婦であることを互いに喜ぶ行為です。ですから、相手に対する深い配慮、愛が必要となります。
私たちも、性について誤解があれば、それをただす必要があります。性交は不潔。汚れたものという考えは間違いです。これは神が我々に与えたもの、夫婦が夫婦となるために与えてくださったものです。さらに信仰者が聖なる者となるために妨げになるものではないということです。禁欲主義が我々を聖なる者とするのは誤解です。性の交わりは、夫婦であり続けるためには必要な大切な事柄です。そして夫婦だけに許されたものです。夫婦が互いに愛し合い、相手の存在を喜ぶ行為です。聖書は、夫婦が愛と喜びに満ちた性の交わりを持つことを教えています。