本日のメッセージ(2007.8.26)
コリント一 9:24〜27 目標を目指して走る
9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
この世の生涯が終わり、目覚めた時、あなたの目の前に天国の門があり、あなたが入るために、門が開き始めました。門が開いた時、あなたは何を見るのか、想像してみてください。天国の門が開いたとき、拍手をもって迎えられいのちの冠を受ける、そんな光景を今日の聖書を読んでわたしは想像しました。
「あなたがたも賞を得るように走りなさい」(24節)。
パウロは、信仰者として生きることを「走る」と表現します。たとえば
「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(使徒20:24)。
他にガラテヤ2:2、5:7、フィリピ2:16。パウロはなぜ、生きることを「走る」と語るのでしょうか。
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:16)。
「光の子らしく歩きなさい」(エフェソ5:15)。
「歩く」、それは生き方を指すように見えます。そして、実際に生きることについては「走る」という言葉を使っているように思えます。
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13〜14)。
パウロにとって生きるとは、目標、ゴールを目指して生きることなのです。マラソンの競技をする者がゴールを目指して走るので、目標、ゴールを目指して生きることを「走る」と表現したのだと思います。
あなたはゴールを目指して生きていますか。どんなゴールですか?
「あなたがたも賞を得るように走りなさい」(24節)。
競技では、成績の優秀な人に賞を与えます。金メダルとか、マラソンでは、優勝者が月桂樹、またはオリーブの葉でつくった冠を頭にかぶる光景を見ることがあります。賞を得るようにとは、ただ目標を目指して走るだけでなく、走ったことが報われるようにしなさいとの意味ですね。
「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうする」(25節)。
この世で競技をする人は「朽ちる冠」を目指して走ると言われます。競技で優勝し金メダルや冠を受け取ります。それは名誉なことであり、誇りです。しかしそれは朽ちる冠と言われます。月桂樹の冠は、葉がしおれて駄目になります。時間が経てば、優勝したことは忘れ去られていきます。人々はどんどん忘れていきます。金メダル、それは過去の栄光です。
パウロは、
「朽ちない冠」のために走りなさい
と命じます。聖書を読むと信仰者が受け取る冠には、いのちの冠(ヤコブ1:12)栄冠(テモテ二2:5)義の栄冠(テモテ二4:8)しぼむことのない栄光の冠(ペトロ一5:4)、金の冠(ヨハネ黙示録4:4)などがあります。
私たちには栄光の冠が用意されているのです。信仰者としての人生を走り通し、天国の門で、拍手をもって迎えられて栄冠を受け取ることができるのです。どう思います? うれしいですね。
競技の場合、一位になった人だけが冠を得ることができます。クリスチャンの場合は、目標目指して走り通した人には、冠が与えられます。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。義の栄冠を受けるばかりです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(テモテ二4:7〜8)。
あなたは神から栄冠を受けることを意識して生きていきませんか。栄冠を与えられ、拍手をもって天国に迎えられる、晴れがましいですね。
あなたは今、何を求めて生きていますか。あなたが求める冠は、朽ちる冠ですか。朽ちない冠ですか。人々が「あなたはすばらしい」とほめてくれる冠、それは朽ちる冠です。自分はよく頑張った、「自分にほうびをあげたい」と言う時、そのほうびも、朽ちる冠です。人間による賞賛は過ぎ去るからです。
神様が「あなたはよくやった」と言って与えてくださるのが、朽ちない冠です。そう思いませんか。
「だからわたしとしては、やみくもに走ったりしない」(26節)。
口語訳聖書では、「目標のはっきりしないような走り方はせず」とあります。あなたは何を目指して生きているのですか。私たちへの警告の言葉です。目標を目指していたとしても、途中で止まったり、引き返したり。迷っていないでしょうか。まっすぐに目標を目指して生きているでしょうか。
「自分の方が失格者となってしまわないため」(27節)。
パウロが失格者になるとは思えませんが、失格者についてパウロはこうも述べています。
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……」(コリント二13:5)。
イエス・キリストが自分の内におられることを知らないで生きる。イエス・キリストを心に宿しているような生き方をしていない、それは信仰者として失格だと述べています。
自分は信仰のことはよく分かっていると誇り、信仰の弱い人に対して思いやりを持たないコリント教会の一部の人々に対して、あなたがたは心にキリストを宿しているとは思えない、とパウロは自己吟味を迫ったのです。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:19)。
私たちは、イエス・キリストが私たちの心に住んでおられると信じ、キリストの心を自分の心とすることが大切です。その時、きっとあなたが何を目標にするかが、見えてくるでしょう。
わたしは、マタイ28:19にもとづき、伝道をして、人々をキリストの弟子に、つまり成熟した信仰者に育てることが目標です。あなたは、どんな目標を持ちますか。
伝道という目標のために、小グループのリーダー、キリスト教入門コースの導き手としての働き手が与えられることをわたしは願っています。チャレンジしてみませんか。