クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

昨日の夜、10センチほど積もったみたいだ。金沢の雪はこの程度。温暖化の影響で、雪国とは言えないだろう。

朝テレビドラマの『ちりとてちん』を見た。

たまたま見たのであるが、落語の師匠がベッドに寝て弟子たちが囲んでいる。死を間近にし「てありがとう」と弟子たちに語っている。いい場面だった。人は死んで何を残すのか。弟子を残す、それもいいなと思った。僕らの場合は、自分の弟子ではなく、キリストの弟子を育てることになる。キリストの弟子を育てることができれば、そんなに心残りなく、生涯を終えることができるような気がした。ちりとてちんのドラマの音楽はかなりいい曲だと感じた。


 午前は北部地域集会。昨日に引き続き地域集会。学びは創世記2章16〜17節。

主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。

最初に、神様は、なぜこのような命令をアダムにしたのでしょうか、とその理由を問うた。参加者は様々に応える。

昨日の松任地域集会でも同じ質問をした。妻が「神様は私たちに自由を与え・・・・」と話した時、僕の口から

聖書に神は自由を与えたとは書いてありませんけど

という言葉が出てきました。妻は、牧師である僕の話を聞いて聖書を学び、それで質問に答えている。それなのに、僕がちょっかいを出すような質問をした形になった。妻の顔色が変化した。集会が終わって、僕は謝った。

 その時、改めて思わされた。僕も含めてであるが、聖書を理解する時、牧師の話、人の話、本からの内容に基づいて理解していることが多い。自分でじっくり考えて理解することより、人から聞いて理解することが多い、と。確かに信仰は聞くことから始まるのであるが(ローマ10:17)、自分でじっくり思い巡らし考えることも大切だと思い知らされる。そんなこと当たり前、っていえば当たり前であるが、現実には当たり前になっていない。

 北部地域集会であるが、なぜ、神様は命令したのか。

 神様は、アダムが神の命令に従うか否か、試したのではないか

とある方が答えられた。

なるほどと思わされる。一通り、参加者がそれぞれに答えた後、僕はこんな風に話した。

「お母さんが二人の小さな男の子を連れて公園に行きました。子供たちに言います。『自由に走り回ってここで遊んでいいよ。でも道路に出てはいけないよ、危ないから』。お母さんはどんな気持ちで子供たちに話したと思いますか」。


聖書には難しい箇所が確かにある。でも信者が、自分で聖書を読んで理解できるように助ける働きを牧師はしなければならない。それは、牧師が聖書の内容について説明をきちんとすればよいというのではない。説明を聞くだけでは聞きっぱなしになって、聞いた時は分かったつもりになるが、改めて読むと分からない、ということがある。