クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

雪の日曜日でした。地面が白い日が何日も続きました。寒い冬です。礼拝、CS教師会教師会が終わり、猫がこたつで丸くなるような日曜の午後を過ごしました。体罰アルジェリア人質事件、悲しい出来事が続きました。いずれも人間が引き起こしました。体罰問題は、人ごとではない面があります。牧師の不祥事が時々、事件として報道されています。体罰に関連して、自戒の意味を込めて、思うことを書いてみました。

↑牧師室の窓から見た雪景色


 学校における体罰が問題となっています。体罰を加え、よいプレーをさせようと指導するのです。最前のプレーをする力をどう引き出すのか。難題です。僕は体罰は絶対反対です。たとえ体罰が生徒を発奮させるとしても反対です。人間の尊厳を軽んじる行為だと思います。言葉で納得させる指導が大切です。


 教会では、体罰そのものはありませんが、体罰問題は人ごとではない、と感じます。聖書にこう書かれています。天に昇られる直前のイエス様の言葉です。

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって、洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

ここで「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とあります。
この聖書の言葉は、大宣教命令と理解されていて、伝道を命じる言葉と理解されています。でも主文は、命じておいたことをすべて守るように教えなさい、なのです。伝道をし、洗礼を授け、そしてイエス様の教えたことを守る弟子としなさい、との意味です。現実の教会において、教えはなされていても、守らせることは、今ひとつです。弟子訓練に関心を持つ牧師たちが増え、聖書の言葉に生きるように信仰者を育てることの重要性が認識されてきました。イエス様の教えに従う信仰者こそ、世に対して影響力を持つ信仰者だからです。


弟子訓練をする牧師たちが陥りやすいのが律法主義です。牧師は教える立場にあります。イエス様が教えたことをすべて守るように教えるのです。守らせるのでする。これは難題です。水のあるところに馬を連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないと言われます。神の教えを人に守らせることが果たしてできるのか、気の遠くなるような課題に思えます。

「これが神さまの教えです。皆さん、守りましょう」。

これでは不十分です。守りましょうと言って、守ってもらえるなら楽です。生徒に良いプレーをしなさいと言っても、それができないので、どうしたらいいのか、そこに監督、コーチの指導の役目があります。牧師もまた、守らせる働きが求められます。


私たちが警戒しなければならない第一のことは、律法主義です。律法主義とは、「守らなければならない」、「守ることが必要である」と教えることです。信仰者は、守るものだと教えるのです。暗黙のうちに、守らないことは悪であると教えるのです。すると守れないと、人は自分を責めることになります。守ろうとすればするほど、できない自分を責めるようになります。挙げ句の果てに、守れないものは守れない、となります。律法主義は、信仰的な体罰に相当します。どうしたら守れるようになるのかの指導がなく、守れというだけです。体罰を与えて、よいプレーをしろというのと同じです。律法主義は、言葉の暴力となります。


大事なことは守れるように教えることです。二つのことを考えなければなりません。教える者がまず、守る者となることです。自分が守ることのできないことを人に守らせることはできません。守ろうとするときにどのような困難があるのか、その困難をどう乗り越えればよいのか、身をもって経験してこそ、守るように教えることができます。スポーツの監督、コーチは、それぞれ経験者であり、技術を持っていて、言葉でもって、あるいは模範を示して指導するのです。


神の教えを守ることにおいて大切なもう一つのことは、福音を知ることです。イエス・キリストを救い主と信じる者は、新しく生まれ変わった者、神の子であることを信じることです。そして神の子とされたからには、父である神の御心を喜んで受け入れ、神の教えに喜んで従う存在にされていることを信じること、それを喜んで受け入れることです。救いを喜ぶということです。この喜びを育てることは説教の課題であり、聖書を学ぶときの課題です。牧師は、ここに精力を注ぎます。これは忍耐を必要とします。信仰者が喜んで神の教えに従いたいと願うように導くのです。忍耐が必要です。祈って待つことが必要です。決して焦ってはなりません。農夫が実りの時を待つように待つのです。