一つだけ書きとどめておく。忘れてはいけないことだと思うので。
午後、妻と弟子コースの学びをした。テーマは「イエスの死」。イエスの十字架の死は歴史的な出来事であり、イエスは悲惨な死を遂げた。それは肉体の苦痛、精神的な苦痛(人々から拒絶され、嘲られ、見捨てられる苦しみ)を超えて、もっと深い苦しみを伴うものだった。つまり、神から見捨てられる苦しみを伴うものだった。それは、我々を罪から救うものであった。
十字架の救いの感激がどれほど我々のうちにあるか。それは、我々が自分の罪をどうとらえるかにかかっている。イエスの十字架の死、それを自分の救いのためだったと信じるなら、イエスのなめた深い苦しみは、大きな感激を救いを得る者にもたらすに違いない。現実にそうなっているのか。
かつての僕は頭の先から足の爪の先まで自分は罪人、徹頭徹尾罪人であると感じた。時間の経過と共にその感覚は曖昧になってきた。それは、自分の行動の善し悪しで罪を計るからである。
人間の罪深さは、行動で測るのではない。多くのクリスチャンの言葉から類推すると、皆、自分がひどい罪人だとは思っていない。ましな人間と思っている。それは行動で罪深さを測るから。
罪は、自分がいかに神と対立しているか、神を神としていないか、という心の有様で計るべきである。僕は神を信じてはいたが、神を神としていない自分に気づかされた。それ以来、自分は徹頭徹尾罪人であることを感覚を取り戻した。
弟子コースの学びの中で、このことを話し始めたら、急に泣けてきた。思いがけないことだった。そんな自分が神に赦され、愛され、生かされているとの思いで感極まったみたい。時々、思いがけずに泣くことがある。