クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.2.17)
コリント一13:4〜7 愛は恨みを抱かない

私たちは恨みからの自由な心を神から与えられます。今日の福音です。
あなたは自分を傷つけた人の悪口を言って恨みを晴らしていることはありませんか。


1.愛は恨みを抱かない 


私たちは人から嫌なことをされると、怒りを感じ、その怒りを相手に向けられないと、恨んだり、憎んだりします。あるいは仕返しをしたいとか、赦せないとか、考えます。このような気持ちを抱き続けることは、プラスにはなりません。何とか、解決した方がよいのです。
今日の聖書は、愛は恨みを抱かないとあります。「悪を数えない」それが今日の聖書のギリシャ語の直訳です。私たちは、自分に対してなされた悪を、つい数えてしまいます。それが傷となって残っているので数えることができます。普段は忘れているにしても、思い出せば数えることができます。恨みという積極的な感情は持たないようにできたとしても、消え去ることはありません。

 恨みを抱かないとは、傷を癒し、恨みの感情を消すことです。神が命じるからには、これはできるのです。

恨みを抱かないとは、

  • 傷を与えられた出来事に捕らわれないようにすることではなく、
  • 傷を与えられた出来事を忘れることでもなく、
  • 傷を与えられた出来事がなかったかの如く考えることでもなく、
  • 傷を与えられた出来事を思い出さないことでもありません。


恨みを抱かないとは、抱かないように解決することによって、抱かなくなることです。恨みを抱かないとは、こちらの怒りの気持ちを相手に伝えること、相手を愛し、相手のために祈ること、相手を赦すことです。


2.神は、あなたの悪を数えていない 


 神は人が罪を犯す時、その罪に対する裁きを必ず行います。エデンの園で禁じられた木の実を食べたアダムとエバは、神の裁きを受けました。アダムは、生涯、生きていくために、食べ物を得るために苦労しなければならなくなりました。エバは、産みの苦しみをすることとなりました。そして人は、死ななければならなくなりました。

 聖書を読めば、罪を犯したイスラエルに対して神の裁きが降ったことは繰り返し書かれています。そしてイエス・キリストが十字架にかかって死にました。キリストの十字架は、

 罪に対する神の怒りは必ず降ることを意味しています。

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(ローマ1:18)。

 神の怒りがすぐに降らないのは、私たちが罪を認め、神に赦しを求めるのを神が待っておられるからです。神は、人間の創造主です。人間が神の目に罪を犯して生きているのを神は喜ばれません。

 そればかりではありません。罪に対する裁きは既に降っています。私たちには、不安、恐れ、思い煩い、平安がなく、喜びに欠け、空しさがあります。これがすでに神の裁きです。

 しかし神は、イエス・キリストによって私たちを赦して下さいました。私たちの犯した罪に対する神の怒りをイエス様が十字架で私たちの代わりに受けてくださいました。そのことを信じ、罪の赦しを求め、イエスを救い主と信じる人は、その罪がすべて赦されます。そして神が私たちの罪を数えることは、もはやないのです。私たちが、赦しを求めれば赦され、神の目に、私たちは罪のない者なのです。

 今や、私たちは、神の罰を恐れる必要もないし、罰が当たることも決してないのです。
罪を数えない神は、罪を犯す私たちを甘やかすのでしょうか。そうではありません。神は罪を赦すだけではなく、私たちの心を新しくし、神に従える心を与えてくださるのです。そして私たちの心は、清められていくのです。神は恵みによって私たちの心をきれいにしてくださるのです。神は私たちの内に、清い心を創造してくださるのです。神は甘やかすどころか、私たちの罪を数えるどころか、私たちを罪から遠ざけてくださるのです。


3.あなたは他人の悪に左右されない自由がある 


 私たちは時に、考え方を転換する必要があります。恨みを抱かないなんて無理、と思うかもしれません。憎らしい、悔しい、赦せない、仕返しをしたい、という思いはなかなか解決できないかもしれません。そうすると、それらの思いに私たちが束縛されることになります。私たちを傷つけた人に左右されて、私たちの人生が、それらの感情に左右されるなんて愚かなことです。恨みを捨てれば、自由になるのです。

 捨てるも捨てないも、それはあなたの自由です。捨てる方が賢い選択です。解決の鍵は、赦しに生きることを決断することです。すると神はそれを可能にする恵みを与えてくださいます。

 聖書のたとえを読みましょう。マタイ18章21節以下です。王に莫大な借金をした家来が登場します。王が返済を迫ります。莫大な借金で返せません。「待ってください。必ず返しますから」と訴えます。でも返せるわけがないのです。莫大な借金だから。驚くことに、王はその莫大な借金を帳消しにし、赦します。

 赦してもらった家来は、家に戻る途中、わずかな金を貸している仲間に会います。そして返済を迫ります。「待ってほしい」という頼みに耳を傾けず、同僚を牢獄に入れてしまいます。それを聞いた王は、その家来の借金の帳消しを取り消し、獄に入れます。
私たちは数え切れないほど神に罪を犯しましたが、すべて赦されました。だから、私たちに対してひどいことをした人を赦すことができるのです。神はそう見ています。私たちが赦すのを期待しています。神が私たちを赦す時、私たちは人を赦す自由が与えられるのです。赦すこのできる自由、他人の悪に左右されない自由を神から与えられているのです。この自由を使えばよいのです。


4.あなたは人の悪を数えないで生きることができる 


 恨みを抱かない方法の一つは、自分の怒りの気持ちを相手に伝えることです。相手の振る舞いによって、自分が傷ついたことを伝えるのです。怒りの気持ち、憤りの気持ちを伝えることができれば、恨みの気持ちはほとんど消えるでしょう。

たとえば、父親に怒鳴ってほしくない場合、どうするか、です。

  • お父さんは機嫌が悪いと怒鳴ります、と事実を告げます
  • お父さんの態度は、私にとって怖いです、と自分の感じたことをそのまま伝えます
  • 私はお父さんに怒鳴ってほしくありません、と自分の気持ちを伝えます
  • ですから怒鳴らないでもらえませんか、と命令ではなく、お願いをします。

 相手の行動に傷ついたこと、その時自分が感じたこと、そしてどんな気持ちでいるのか伝えるのです。そして、二度とこういうことをしてほしくないと伝えるのです。

 第二の方法は、相手のために祈ることです。相手に怒りの気持ちをそのまま伝えることができない場合があります。そういう場合は、神様に自分の気持ちを伝え、相手のために祈るのです。恨む代わりに、祈るのです。恨む代わりに祈り続ければ、恨む心はいやされて消えていくでしょう。あなたの心には、執り成しをする愛の心が残るでしょう。

 第三に、あなたは相手を赦すことができます。赦しは決断、意志で行う行為です。恨みに生きないという決心をし、赦しますと神に祈ります。

 人は誰もが重荷を負っています。重荷のゆえに、転んだり倒れたりします。つまり、人を傷つけたり、間違ったことをすることがあるのです。相手の弱さ、頑なさ、を思いやり、赦し、神に祈るのです。

 イエス様は十字架で自分を侮辱した者たちのために祈りました。「彼らを赦して下さい」。あなたも「彼らを赦して下さい」と祈ることができるのです。そしてあなたは、人の悪を数えないで、恨みを抱かないで生きる信仰者になっていきます。感謝なことです。ハレルヤ!