↑ オオバキスミレ
今日は名古屋へ。教区教育部委員会。名古屋まで特急と新幹線で片道3時間。会議は2時間。名古屋はとても暑い。だるくなる。汽車の中は、貴重な読書の時間でもある。夜7時に帰宅。食事をして、9時早々に就寝。といっても寝床で本を読む。『決壊』(平野啓一郎)。
バテたのに、心の奥では、やっぱり山へは行きたいという思いがあるみたいで、自分は山が好きなんだと思う。若い時とは違うので、バテないように注意はしなければならない。
弟子コースで「正しい祈り」を3回にわたって学んだ。僕は聖書の読み方については、ディボーションを学んだ。ディボーションをすれば、聖書を与えてくださった神のみ心に沿って聖書を読むことができると確信している。僕の課題は祈り。キリスト教書店へ行けば、祈りについて沢山の本が置いてある。牧師としては、祈りとは何かを教え、祈りの実践を助ける働きがある。今回の学びで、祈りとは何か、つかめたような気がする。何年も牧師をしていて、そんなことを言って、何か心許ないと言われれば、その通りである。でも、わかったような顔をすることはできない。
祈りとは、クリスチャンにとって特権である。祈りとは、父なる神との交わりである。祈りは祈願であるが、主の祈りにあるように、神の栄光のために祈り、次に自分の必要のために祈るもの。神第一の優先順位を心にとめなければならない。人間の必要についても主の祈りが興味深く教えている。最初に物質的必要を祈ることが許されているが、その後に、三つ人間の霊的必要についての祈りがある(罪を赦し、試みからの救い、悪しき者からの救い)。人間にとって、霊的必要を祈ることは大切。それは言い換えると、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるということに他ならない。
僕が思うに、祈りには二つのパターンがある。一つは全く自由な祈り。祈りで何を語るかについては全くの自由。自分の気持ちを正直に神に伝える祈り。自分の様々な感情、思いを神に伝える祈りであり、親しい友に何でも語るように神に語る祈り。