クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 陰府に降り

本日のメッセージ(2009.6.14)
聖書 ペトロ一 3:18〜22 陰府に降り

使徒信条では、キリストは「陰府に降り」とあります。人は死んだらどうなるのか。はっきりとした答を知りたいと考えます。


1.難しい問い 


 イエスを信じる者は永遠の命を得ると聖書に書いてあります。では、イエスが誕生する前に生きた人々はどうなるのでしょうか。キリスト教の伝道がなされる前に生まれ死んだ人々はどうでしょうか。この人々は、イエスを信じることが不可能な人たちです。イエスを信じない私たちの家族はどうなるのでしょうか。イエスを信じたが信仰から離れた人はどうなるのでしょうか。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

 イエスを信じる人は永遠の命を与えられるが、滅びる人がいることも語られています。この場合の滅びとは、肉体の死ではなく、永遠の命と対比される滅びです。この滅びは、よく地獄と言われます。


 聖書は、人は死んだらみな天国に行くとは述べていません。自分が天国に行けないで、悔しがる人々の存在をイエスは、語っています。誰が天国に行き、誰が天国に行けないのか、明確な条件があるのでしょうか。


 クリスチャンは救われる、クリスチャンでない人は滅びる、と主張する人もいます。明快です。しかし、先ほど述べたように、イエスを信じたくても信じることができなかった人たちはどうなるのでしょうか。もし救われないとしたら神は不公平だという主張も出てきて、明快な論理に危うさを感じるわけです。


 使徒信条にはキリストは「陰府に降り」とあります。この「陰府に降り」という文言は、後から挿入されたと言われています。旧約聖書では、陰府とは死者の行く場所と考えられています。善人も悪人も死んだら、みな陰府に行くと旧約聖書では考えられています。「陰府に降り」はイエスが死んだことを繰り返して述べていることになります。しかし、付け加えられたとするなら、そこに意味があるはずです。それを調べることは、私には、難しい作業です。


2.陰府の力 


 キリストが陰府に降ったことを示す聖書の箇所ではないかと考えて、ペトロの手紙一を取り上げました。19節で、キリストは

「捕らわれた霊たちのところへ行った」

とあります。捕らわれた霊が何を意味しているのか、どこへ行ったのかは明確ではありません。この手紙を受け取った人たちには理解できたことと思われますが、私たちには理解できません。


 それでこの箇所は、様々な解釈がなされています。様々な解釈がなされるということは、ここから、信頼に足る教えをくみ取ることができないことを意味しています。また20節では、キリストは、ノアの時代の不信仰であった人々に宣べ伝えたと書かれています。キリストが宣べ伝えたのは、一部の人だけとなります。イエス・キリストが生まれる以前の人すべてではありません。どうしてノアの時代の人だけなのか、という疑問も生じます。


 「陰府に降り」ということを考えるために、ペトロの手紙を基にするわけにはいきません。しかし教会は、イエス・キリストは陰府に降ったと語る使徒信条を告白し続けてきました。ですから「陰府に降り」は何を意味しているのか、明らかにすべきなのです。新約聖書は全体として、キリストは死んでよみがえったと明確に語っています。死んでよみがえるまでの間、キリストはどこで何をしていたのか、について語る箇所はほとんどありません。そして他にも明確に手がかりとなる聖書の箇所は見あたらないといってもよい状態です。


 「陰府」については、一つ手がかりになる箇所があります。それはペトロの信仰告白の箇所です。イエスは病人をいやし、人々が驚くような教えを語りました。この人は一体何者なのだろうという疑問を弟子たちが感じたこともあります。そこでイエスは弟子たちに尋ねるのです。「あなたがたはわたしを何者だというのか」。ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。その時イエスは、

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」

と語りました。

 ここで「陰府の力」という言葉が出てきていることです。そして陰府の力は、教会に勝つことができないと書かれています。


 陰府というのは、死者の行くところと考えられていて、地下の世界です。闇の世界、死の世界です。そこは闇が支配しています。死が支配しています。陰府の力とは、闇の力、闇の支配、死の力、死の支配です。


 この陰府の力は、私たちが今生きているこの世界にも及んでいるのです。ヨハネ福音書の最初にこう書かれています。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)。

 光とはイエス・キリストのことです。暗闇とは、闇の力に支配されたこの世の人々のことです。この世の人々は闇に支配され、イエスを理解せず、イエスを殺しさえしたのです。またこの世の人は死の支配の下にあり、死を恐れます。この世の人々は、闇の支配の下にあり、光を光として認めず、光のもとに来ようとしません。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」(ヨハネ3:19)。


 闇の支配は、罪の支配と言い換えることもできます。人は罪の支配下にあり、罪を犯します。クリスチャンになっても、同じ罪を繰り返したり、したい善は行わず、したくない悪を行う現実があります。クリスチャンといえども、陰府の力、闇の力、罪の支配の下にあるように思えるのです。


3.陰府の力に勝利するキリスト 


 イエス・キリストは十字架で、「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と叫びました。イエスの死、それは神に見捨てられる死でした。罪を裁かれるとは、神に見捨てられると言うことです。イエスは、私たちの身代わりに十字架で神から、罪に対する裁きを受けました。「陰府に降り」とは、イエスが徹底的に神に見捨てられ、その苦しみを味わい尽くされたと理解することができます。イエス・キリストの死は、身代わりの死ですから、私たちの罪の赦しが強調されることになります。


次に、

「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(コロサイ1:13)。

神は私たちをイエス・キリストを通して闇の支配から救い出して下さったと書かれています。パウロは、伝道者とされた時、「人々を闇から光に導きなさい」と主イエスから命令を受けました。


 イエス・キリストは、私たちを闇から光に導き、闇の支配から、死の支配から、救って下さるのです。キリストが陰府に降ったとは、そこで陰府の支配を打ち砕いたと言うことです。ですから、私たちは、陰府の力、闇の力、死の力から解放されたのです。それは今、この地上の生活で私たちは光のもとで生きることができるということです。


 罪が赦されることは感謝です。しかし、信仰者になっても、相変わらず、罪を繰り返し、闇に支配されるような生活を私たちはしなければならないのでしょうか。すべきだとわかっていても行うことができず、してはいけないとわかっていることをしてしまう、惨めな体験です。これは私たちが闇に支配されている状態です。キリストは私たちをこの状態から救い出すことができないのでしょうか。キリストは陰府に降り、陰府に打ち勝ち、闇の支配に勝利しました。私たちももう、惨めな経験を繰り返す必要はないのです。キリストの勝利を信じ、罪に勝利して歩むことができるのです。


 最初に申し上げましたが、イエス・キリストを信じないで死んだ人はどうなるのか、という問いがあります。東京神学大学で教鞭を執られ、鎌倉雪の下教会の牧師をしていた加藤常昭牧師の説教を読みました。加藤牧師はすぐれた牧師です。説教の中で、こう述べています。


 死んだら天国と地獄があって、善い人間は天国に行き、悪い人間は地獄に行くというような考え方は聖書の前面に出ているわけではありません。天国、地獄というような「死後の世界」というような考え方は、聖書以外の領域から教会の中に入り込んできたと考えてもよいくらいですと述べています。これには、はっとしました。・・・・

 死の世界、闇の世界、死の力が支配している世界、滅びの力が支配している世界、それが光の世界と向かい合っている。この対立、そして闇の世界からの救いを聖書は述べていると加藤牧師は語っています。


 イエスは陰府に降り、闇の支配、死の支配を打ち破ったのです。そのことを聖書は語っているというのです。闇の支配、死の支配は、私たちが生きている時も、死んだ後もあるのです。しかし、それはキリストが陰府に降り、陰府の力を打ち砕かれたのです。それ故、私たちはこの地上の生活の中で、闇の力から解放されて、罪の支配、死の支配から解放されて生きることができるのです。そして死んだ後は、闇の力から解放され、永遠の命に、光の中に生きることができるのです。


 そしてキリストが陰府に降ったとは、死んでも闇の中にいる人、陰府にいる人、その人にも、キリストの恵みは開かれているということなのです。ノアの時代の不信仰な人々のキリストが宣教したことは、そのことを示しています。だからといって、闇の中にいる人が必ず、キリストの恵みを受け入れるとは限りません。闇の中にいる人は自分が闇の中にいるとは気がつきませんから。ヨハネ福音書が語るように、人々は光より闇を好んだからです。


 ですから、伝道することはとても大切なことです。私たちが身近な人に伝道をよく行うならば、陰府において、キリストの恵みに心が開かれるかもしれません。そのことは、神にゆだねていきたいと思います。


祈り


天の父、闇の力、死の力が私たちを支配しています。
しかし、イエス・キリストが陰府に降り、その力に勝利して下さったことを感謝します。
私たちは闇から光へ、死から命へ移されていることを感謝します。
信仰者の歩みは勝利の歩みであることを感謝します。
闇の力に縛られている人がいましたら、光へ導いて下さい。
またキリストを信じてくれない家族に対しても、キリストを信じる幸いを伝えることができるように力を与えて下さい。
イエス・キリストのみ名により祈ります。