今日は、北陸学院高校での礼拝説教奉仕。礼拝が終わって校長から話を聞く。以前、高校で聖書の授業をしたことがあるが、その時の生徒が今大学に行き、どんな活躍をしているのか、うれしい知らせを聞いた。午後は本屋へ。夜、誕生カードを出しに郵便局へ。涼しい風が気持ちがよい。
人間には人格があります。医学的に見れば、肉体の成長はほぼ二十代で止まりますが、むしろそれ以後から人格の成長が始まるのです。人によっては死ぬまで成長するし、途中で止まることもある。本当の「老い」は、人格の成長の止まった時に始まると言えます。人格の成長は一人びとりによって違うので、一概に何歳になったから老いてきたということは言えない。
この文章は、『老いと死をみとる』(長谷川保)の中から抜き書きしたもの。以下、抜き書きしたもの。
生命ある者が老いて世を去っていくのは自然なことです。しかし、人間にとっての、老いるということは肉体的な老いだけではありません。人間以外の動・植物のように、子孫を残して老いていくという生物的意味だけの老いがあるのではありません。
人間には人格があります。医学的に見れば、肉体の成長はほぼ二十代で止まりますが、むしろそれ以後から人格の成長が始まるのです。人によっては死ぬまで成長するし、途中で止まることもある。本当の「老い」は、人格の成長の止まった時に始まると言えます。人格の成長は一人びとりによって違うので、一概に何歳になったから老いてきたということは言えない。
私は多くの老人たちに会ってきましたが、利己的考え方の強い老人というのは、非常に気の毒に思います。自分によかれという利己的な考え方で行くと、何事につけても自己防衛的になる。さらにそれが進むと、被害妄想になっていきます。
芸術家であれ、実業家であれ、私のように信仰者であれ一心に打ち込んでいる人には、それなりに生き甲斐を感じているから、そういう意味で人格の成長はあるわけです。人格が成長している間は、いわゆる「老い」ではありません。ですから「老い」とは肉体的年齢によるものでない。また人格が成長すると、肉体も支えていくことになるのです。
人格の成長しない人にとっては、精神の老いと同時に肉体的な老いもきます。しかし、絶えず学ぶ者は絶えず人格が伸びる。ほとんど死ぬまで成長しているのではないでしょうか。そして、絶えず成長している者は、そこに生き甲斐を深く感じているので、したがって呆けるのも遅いのです。人格的な成長をするかしないかの差は、それぞれの人がどういう使命感を持っているのかで、出てきます。
私はクリスチャンですから、愛のわざをしていくことを使命感と考えています。
私は生きている意義を少しでも人を助けたい、愛のわざをしたいということにおいていますから、それができなくなった時には、天国へ行きたいと考えています。人を助けることに一番大きな喜びをもっているわけですから、それができなくなった時には、天国へ行きたいと考えています。
死というものを私は単に襖を開けて隣の部屋へ移るようなものだと考えています。そこは、さらに価値ある永遠の世界があると、私は信じています。隣人を助ける仕事がなくなれば、地上にいる必要はないという考え方をしています。
肉体が老いて動かないようになっても、隣人のために祈るということは残っているのです。たとえ、寝たきりでもなお、生き甲斐は残っているのです。しかし、晩年で生き甲斐をもてるかどうかは、若い時からの生き方の積み重ねなんです。そういう意味では、若い人にとっても、老いの問題は年を取ってからの問題ではないのです。すでに始まっているのです。ある時から断絶して老いという何か新しいものがやってくるのではありません。若い時の人生観、価値観というものが、そのまま老いにつながってくるのです。
大勢の老人を見て私がしみじみと思うのは、幸せな老方をすると人というのは、若い時から清らかな愛をもって、人々を助け、愛し、幸せにしていこうという人生観をもち、実践してきた人たちです。