クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


 朝、ヨシュア記6〜8章を読む。夜は地区のCS校長会。来年2月のCS教師研修会の打ち合わせ。



 神谷美恵子さんが『こころの旅』(著作集3 みすず書房)という本の中で、向老期という言葉を使っている。年代としては、55〜65才頃の時期である。壮年期は過ぎたが老年期ではない。しかし、老いを感じ、意識する時期だという。向老期、納得する。


 自分は老いの時期に入ったと感じる。肉体の衰えは確かに感じるし、精神的にも、今までに経験しなかったことを感じたり思ったりする。最近、感じたことは、残された時間が少ないこと、したがってできることが少なくなったことの寂しさを感じる。僕は山が好きであるが、北アルプスのような高山はなかなか登ることができないと思う。牧師としての務めにおいては、若い時のように、何かを成し遂げるということよりも、一人の信仰者としての成熟を目指したいという思いが強く目覚めてきた。成熟した信仰というものを見せることもまた牧師の務めであると思わされる。


 祈りとは、正直に神様と語り合うことであるので、寂しさを神に打ち明けた。老年期には、壮年期に享受できたものは失われる。しかし、老年期にこそ得ることができるものがあるはずだし、それを得るのが老年期を生きることであると教えられた。老年期に何を得ることができるのか、それはきちんと学んで得ていきたい。老年期を生きることも神の摂理であるだろうから。


 ある教会員が、「私は今、人生の最終章を生きている」と話された。僕もまた、老いの中に自分が入りつつあることを受け入れていきたいと考えている。


神谷さんの文章を抜粋、引用する。「老いの自覚」というタイトルのついた文章である。

 前章では、55才頃までを壮年期としたが、それからあとすぐ老年期が来ると考えるのは現状にはあわない。65才頃までは、向老期と呼ぶことができる。この時期の人間は、早晩「老いの自覚」というひそかなものを、心の中に抱いて生きていかなければならない。この自己対自己の内容がそれまでとは違うからである。


 この自覚は、四十代から始まっていたかもしれないが、向老期でははるかに切実な、意識的なものとなってくる。


 ボーヴォアールは大著『老い』の5章「老いの発見と受容」の中で、「老いの受容、老いをわが身に引き受けることが特に困難なのは、我々が常に老いを自分とは関係のない異質なものと見なしてきたからなのだ〜私は以前としてわたし自身であるのに、別の者になってしまったのか」。


 こうした自問は、それまでの生の歩みの中で、貧困や挫折や病気など、弱者の立場に身を置いたことの少ない人ほど苦渋に満ちているかもしれない。この本の読後に、まざまざと残るのは、著者自らの不満であり、葛藤である。「あきらめるのが性に合わない」彼女の性質として、これは当然のことであろう。


 向老期の心理的特徴を「抵抗期」と名付ける人がいる。どんなに抵抗しても、否応なしに意識にまず昇ってくるのは身体的な衰えや症状である。


 女性の「肉体的定年」よりも男性の「社会的定年」の方がこころの生活にとっていっそう大きな重荷となりうることは臨床上しばしば観察される。


 「無用者となることは定年退職よりももっと耐え難いことである。なぜならば、個人は社会からスクラップ(廃品)のように投げ出されてしまった、と感じるからである」。


 そこへ行くと、女性は極めて高齢まで家事を担当することができるので、若い者と張り合う意識を持たなければ、「廃品意識」は持たないで済むといえる。


 実は向老期では、ふつうまだ真の無用者ではないはずだが、少なくとも覚悟として、この新しい自己像を受け入れることがこの時期の困難な課題である。