クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.9.26)
聖書 ルカ2:26〜38 神の子の支配

 先日、柳田邦男というノンフィクションの作家の講演会に行きました。その講演会で心に残った言葉がありました。

「生きるとは自分の物語をつくることだ」。

目が開かれる思いをしました。人は受け入れがたい事態に直面したとき、どうしたらその事実を受け入れることができるようになるのか。それは物語をつくることによってだ、と柳田さんは話されました。こころの友の10月号に、小中ももこという方が文を寄せています。彼女の夫は、40代で病気で亡くなりました。小中さんは言います。

「私を含め、常に他人優先で誰に対しても分け隔てなく愛をもって接してきた夫がなぜ病に苦しまなければならなかったのか」。

彼女は、神にみ心を問います。そして一つの思いに導かれます。

「夫との時間がいくらでもあると思っていた頃、常に夫のことは後回し、わたしは自分に見返りのあることを優先させていました。彼の肉体がなくなったとき、これまでないがしろにしてきたものに気づかされ、私は泣きました。そして新たに気づきました。彼が自らを神に捧げて私に教えてくれたのは、過ちを繰り返した私をも見捨てず受け入れてくださる主イエス・キリスト、神の愛」。

 彼女は夫の死を、夫が自らの命を捧げて自分に神の愛を教えてくれたと理解して夫の死を受け入れたのです。夫の死という出来事、それを神の愛を知る物語として理解し、彼女は夫の死を受け入れたのです。


 人生は物語。生きるとは、自分の物語をつくること。なるほどと思いました。人は誰でも一冊は小説を書けると言われます。自分の生涯を物語として書くことができるわけです。


 クリスマスの時、教会ではクリスマスの物語を劇にします。その時、必ずといってよいほど取り上げられるのが今日の場面です。天使が登場して、おとめマリアに救い主イエスを身ごもることを告げます。また何人もの画家がこの場面を絵に描いています。絵の好きな方なら、何枚か絵を思い出すことができるのではないでしょうか。エル・グレコという画家の絵が私には印象的です。


28節で天使はマリアに言います。

「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」。

30節では

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」

と告げています。両方の天使の言葉に共通しているのは「恵み」です。マリアは神から恵みをいただいたというのです。「恵み」というのは、神様から一方的に与えられるありがたいものを意味します。人間がそれを受け取る資格があるから受け取るというのではなく、神が一方的に与えてくださるものです。人間に受け取る資格がないのに与えられるもののことを言います。


 マリアが恵みとして受け取ったものは何でしょうか。

「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。

マリアはまだ結婚しておらず、子供を授けてくださいと祈っていたわけではありません。神様から、一方的にあなたは身ごもると言われるのです。これが恵みだというのです。マリアは言います。

「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。

まだ結婚していないのにどうして身ごもるということがおこるのでしょうか、と疑問を投げかけているわけです。すると天使は、聖霊があなたに降り、身ごもるというのです。さらに天使は、生まれてくる子は、偉大な人となり、いと高き者の子と言われ、また神の子と呼ばれる。神はその子にダビデの王座を与える。王としての支配は終わることがない、と驚くようなことを言います。


 神はマリアに、救い主・メシアの母となるようにと言ったのです。救い主の母となるというのは誰もが経験することではありません。いや、世界の中で、この歴史の中でただ一人の人だけが経験することです。マリアは、メシアの母となるように神に選ばれ、子を産むのです。光栄と言えば非常に光栄なことです。しかし、マリアは次のように言うこともできました。「私にはいいなづけのヨセフがいます。ヨセフとの間に普通の子を授かれば私はそれで十分です」。なぜなら救い主となる人物を宿すなんて、何か不安です。将来が描けません。それよりも平凡な結婚生活の方が安心できると考えることもできます。ですからメシアを身ごもることは、単純に恵みと呼ぶわけにはいきません。


しかし天使は、

「あなたは神から恵みをいただいた」

と宣言します。

  • メシアの母として選ばれたこと、
  • メシアの母として生きる役目をマリアは神からいただいたのです。
  • メシアの母として生きる召し、使命を神から受けたのです。

 神から使命を与えられること、ある働きをするように選ばれること、神から召しを受けること、それは恵みだと天使は宣言するのです。


信仰者として生きることは恵みです。長老として働く召しを受けることも恵みです。教会学校の先生として働く召しを受けることも恵みです。世の光、地の塩として生きていく召しを受けることも恵みです。世の光、地の塩として生きる召しはすべてのクリスチャンに与えられた召し、恵みです。


聖書には、パウロという人物が登場します。最初、彼はクリスチャンを迫害していました。しかし復活したイエスとの出会いという不思議な体験をした後、イエスを宣べ伝える伝道者になります。イエスのことを宣べ伝える人たちの中で、ある限られた人たちのことを「使徒」と呼びます。普通イエスの直弟子を指しますが、パウロ使徒と呼ばれます。パウロ使徒に召されたことを恵みと受け止めています。

「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日の私があるのです。そして私に与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。働いたのは実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」(コリント一15:9〜10)。


人は言うかもしれません。「神の召しを受け、働きを担うことは重荷で大変なのではないか。自分に果たしてできるだろうか。恵みとは思えない」。そういう不安は当然です。聖書にも、神から使命を与えられて不安になった人がいます。イスラエルの民を奴隷の地、エジプトから導き出した指導者モーセもその一人です。彼は、神から言われるのです。

「今、行きなさい。わたしはあなたをエジプトの王のもとに遣わす。わが民、イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト3:10)。

 モーセは、「わたしは何者でしょう」「わたしは口が重く、舌の重い者です」。神の召しを退けるのです。神は言います。

「わたしはあなたと共にいる。あなたに語るべき言葉を教える。あなたの兄を協力者とする」。

神の助け、これも恵みです。パウロも様々な労苦を経験します。聖書のある箇所でその労苦を列挙した後、言います。

「キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ります」。

 神の召しは時に重荷と感じられるでしょう。しかし神が助けてくださいます。神の恵みが伴います。神の召しは恵みです。神の助けも恵みです。マリアは、「お言葉通りこの身になりますように」といって、この恵みを受け止めました。神が助け手くださる時に、神に導かれる私たちの人生の物語が築かれていくのです。


 天使は、マリアの産む子が、ダビデの王座に座り、ヤコブの家、つまりイスラエルを支配すること、その支配に終わりがないことを告げます。私たちはイエスが十字架で死ぬことを知っていますから、天使のお告げは変だと思うかもしれません。この天使の言葉は、旧約聖書に書かれているメシア待望の言葉なのです。ですから天使の言葉により、神がメシアを送ってくださることがわかります。マリアも自分がメシアを身ごもることが理解できます。


 そのイエスが活動を始めると、人々はイエスの教えが権威あることに驚き、またイエスの力にも驚きます。病人をいやし、悪霊に取り憑かれた人から悪霊を追い出します。それ故人々は、イエスこそ、メシアではないか、と期待を持ちます。イエスが王座に就き、イスラエルの国を再建することを期待したのです。ローマ帝国の支配からイスラエルを解放し、独立した国家を築き、その王となること、そしてイスラエルは永遠に続くことを人々は期待したのですが、イエスは十字架で死んでしまいました。旧約聖書のメシアを預言する言葉とメシアであるイエスの死とどう結びつくのか、と考えるように促されます。


 ここで大切なことは、聖書の歴史に対する見方です。歴史というと、いつだれが何をした、何が起こった、そういう事実を列挙したものが歴史と考えがちです。日本の歴史といって、年表をつくると、そこに日本の歴史が現れていると考えます。聖書は歴史を出来事の羅列とは見ないのです。


 イスラエル民族の歴史が旧約聖書に書かれています。そういう出来事の背後に神がいる、神が歴史を導いている、と聖書は見るのです。歴史とは神の御業の歴史なのです。そしてイスラエルの歴史、それは神の救いの物語、あるいは神の民の物語と呼べるのです。神はイスラエル民族を神の民として選びました。彼らをエジプトにおける奴隷という困難から救い出し、神の言葉によって生きる者として選んだのです。


 歴史は偶然が生み出すものではなく、神の導き、支配のもとにあるのです。神は、歴史の中で、神の民を導かれるのです。神の民イスラエルが神を信じ、神をたたえる群れとして生きることが神の願いでした。神の民が、神の言葉によって生きることを願っているのです。神の言葉によって歩み、神に感謝し、神をたたえつつ生きることを神は願っているのです。そういう神の民を歴史の中で導くのが神の働きなのです。


 旧約聖書は、神の民の物語、神の民を導く神の物語なのです。旧約聖書が明らかにしていることは、罪のために、神の民が神に逆らい続けたという事実です。イスラエルの民はしばしば他の神を礼拝し、偶像礼拝をしています。ですから、神がイスラエルに送るメシアとは、外国の支配からイスラエルの民を救い出す救い主ではなく、イスラエルの民を罪から救う救い主なのです。そしてこの救い主は、イスラエルだけではなく、人類すべての人を罪から救い出すメシアなのです。そして、このイエスの支配は永遠に続くのです。


 イスラエルの民はイエスを十字架につけ、神が送ったメシアを受け入れませんでした。神は、イエスを信じる者たちを、つまり教会に連なる信仰者の群れを新しい神の民とされたのです。教会はイエス・キリストを宣べ伝え、多くの人を信仰に招き、愛と平和に生きるように人々を教えています。そして神の国がこの世に広がることを神は願い、その働きを教会に託しているのです。


 イエスは、教会の頭として、つまり目に見えない指導者として教会に今も生きておいでになることを私たちは信じています。私たちはイエスを主と仰ぎ、この方に従って生きていこうとしています。私たちは主イエスの御支配の中を生きているのです。この主の御支配は、目には見えない霊的支配は世の終わりまで続きます。終末の時、主イエスの御支配が誰の目にも明らかになります。


マリアは、

「お言葉通りこの身になりますように」

と言い、神の恵みを受け取りました。メシアの母として生きることを選びました。神の物語、神の救いの物語に関わって生きようとしたのです。そして私たちもまた、神の物語に生きるように招かれているのです。神と共に、神と一緒に人生の物語を作るように招かれているのです。福音に生かされ、福音のために生きるのです。そのために役割を果たすように、私たちは神から使命を与えられているのです。


 人は自分の人生はこれでよかったのだと納得のできる人生を目指すでしょう。自分なりの人生の物語を築くのです。私たちはそれだけではなく、神が導いてくださる、人生の物語を築くのです。

「神さまはね、わたしの人生をこんな風に導いてくださったんだよ」

と孫に語ることができるような人生を送りたいんです。わたしたちの周囲にいる人に語ることができるような人生を送りたいんです。


 私自身の人生を振り返るとき、大きな流れとしては、信仰を持たない者としてむなしい人生を送り、やがて信仰に導かれ、空しさから救われ、さらに牧師へと導かれ、神に用いられる人生を歩むことになりました。牧師としてささやかですが、神の救いの物語に参加し、その一部を担う人生を送ることができることを光栄に思っています。


 聖書は、神が世界を造ったことに始まり、神の国の完成で終わっています。神は神の民を生み出し、神の国を目指す歩みをさせるのです。この神の救いの物語に参加していくとき、私たちの人生は、神に導かれる物語となっていくのです。あるいは、どのような悩み、問題があっても、私たちが神を神と仰ぎ、何事も神にゆだね、神を差し置いて自分の力で歩まず、神に解決を求め、神の導きにゆだねて生きていくなら、神に導かれる私たちの人生の物語ができるのです。感謝で、光栄なことです。


祈り

 天の父、生きるとは、あなたと共に歩み、あなたと共に歩む物語を作ることであると思わされました。またあなたはこの歴史の中で、神の民を作り、その歩みを導かれます。教会はこの世に福音を宣べ伝えます。教会のまた、神の民の物語に行きます。神の民の物語に加わることによって、さらにわたしたちの物語が、私たちの人生が祝福されたものとなりますように、イエス・キリストの御名により祈ります。