クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 時々、いやたまに、空しさに吸い込まれてしまう時がある。日曜の午後に。昨日はその日だった。で、妻と一緒に車に乗りながら、そんな気持ちを伝え、書店へ。水木しげるの漫画を一冊、それと小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮文庫)。

人は、生きていく上で難しい現実をどうやって受け入れていくかということに直面した時に、それをありのままの形では到底受け入れがたいので、自分の心の形に合うように、その人なりに現実を物語化して記憶にしていくという作業を、必ずやっていると思うんです。

 こういうことを言ってのける作家の本を読んでみたいと思った。作家は、物語を作るものと彼女は言った。これは映画化され、その映画は見た。その時はただ一つの映画としてみただけ。まあいい映画だと思ったがその程度の印象。


 今日は、近隣の牧師さんたち夫婦とのデボーションの分かち合い。神さまが用意してくださった言葉を聞けた思いがした。A牧師が、ヨハネ黙示録7章11節以下から話をしてくださった。その中で、「神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれるからである」が引用された。神は、神の国に迎えた人の目から涙をぬぐってくださる。言い換えると、神の国を目指す人の地上の歩みは、涙する歩みでもある。これを聞いて、空しさに吸い込まれた僕に、神さまが教えてくださったように思えた。「涙したらいいんじゃない」。祈りとは自分の気持ちを神に伝えることだと日頃教えているのに、いざ自分となるとなかなかできていないことにも気づかされた。


 B牧師は、マタイ18章から、ペトロがイエスに何度赦せばいいですかと聞いているところから、聞き取っている。これもう〜む、とうなってしまったのだが、ペトロはイエスの「赦しなさい」を律法の言葉として聞いている。何度赦さなければならないのか、というのは律法として聞いていることだ。「赦しなさい」。これを福音の言葉として聞けたらいいのではないか。なるほどと度思わされた。そこで思い出す。ある牧師が「僕は律法が好きなんだよね」と言った。


 あまり意識していなかったのだが、僕は、神の命令を福音として聞けているなと思う。律法としては聞かない。なぜかと自分に問うたが、恵みの神の命令は、これもまた恵みだと思っていることを思う。