クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 先日ヨブ記を読んで教えられたこと、導かれたことがあった。ヨブは自分がなぜ苦しみを味わうのか、理由を知らない。子を喪い、財産が奪われ、そして自分自身が病気で苦しむ。やがて三人のヨブの友人たちは、罪を犯したから苦しみが来たのだ。だから、罪を悔い改めよと語るが、ヨブには罪を犯したという思いはない。やがてヨブは、神がなぜ、このようにひどい目に遭わせるのかと抗議をする。ヨブの苦しみの真の理由をヨブは知らない。知り得ないのに、神が自分に対して悪を行っているとさえ言う。そこにヨブの過ちがあった。人間には知り得ないことがあることを謙遜に認めることの大切さを知らされる。そして我々は、神が万事を益としてくださるという信仰に立つことが許されている。
 このことを思い、導かれたことがある。いつの間にか、僕も年を取った。牧師としてあと何年働くことが許されるのか分からないが、長い期間働くことはできないことは確かだ。すると今まで自分は何をしてきたのかという思いと、取り立てて言うほどのことはしてこなかったような気がして寂寥感を覚えた。こういう思いは人間的な思いであるのだが、すぐには対処できなかった。ヨブのことを思いめぐらして、導かれた。
 人間には知り得ないことがある。牧師としての働きがどのような結果をもたらしているのか、簡単には判断はできない。何人洗礼を授けたとか、説教集を出版したとか、目に見える形の実もあるが、それだけが働きではない。聖書には、一人が種を蒔き、別の人が刈り入れるとある。謙遜に自分の働きが神さまに用いられることを信じて、それでよしとすべきなのである。あるいは、一日一日の働きを神への献げ物としてささげて歩めば、それでよいのである。ローマ書の12章には、あなたがたの体を神に喜ばれる聖なる生きた供え物として献げなさいとある。牧師として人生を神に献げているつもりでも、日常生活の中で、その思いが試される。聖書の言葉は知っていても、湧いてくる人間的な思いに悩む。これもまた牧師の現実だと思う。