クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 この頃、夜中にふと目が覚めるときに何となく重苦しい思いを感じます。今まで感じたことのない思いです。何だろうと思い巡らすとき、原因らしきものが浮かんできました。第一に自分の年齢は、死がそんなに遠くない時期にあることを思わせること。一緒に暮らしている妻の母は今、98歳です。この年齢まで生きるとすると僕はあと30年生きることができますが、己の死を30年も先と考える気持ちにはなれません。


 第二に牧師としての務めを果たすことができる時期もそんなに長くないとの思いがあります。若いときから牧師の務めを続けてきましたが、心身の両面で衰えは感じます。しかし同時に一種の充実を感じます。果物が熟するような成熟です。果物は、熟すと地に落ちます。地に落ちる寸前の熟した味わい。そんな充実を感じはしますが、これを長く続けることはできるのかと言われると不安になります。いつまで牧師の働きをするのか、できるのか、神さまの導きに従います。


 第三に何か分かりませんが、現実の不満から逃げたいとの思いがあるのかも知れません。第四に安倍首相の言葉に対する不誠実さに対する憤りがあるのかも知れません。一国の指導者たる者が言葉に対する不誠実さを振りまくとき、その国は間違いなく、非人間的な社会に堕していきます。


 いずれにせよ、言葉に言い表せない複雑な思いがあります。以前の自分だったら、そんな気持ちにお構いなく、すべきことをする!に徹していたと思いますが、自分の気持ちを大切にしないと神さまの声は聞こえないと思っています。


 <死>に関わる二つの出来事がありました。一つは、NHKのハートネットTVで滋賀県のある村における<看取り>の光景を切り取って見せてくれました。90歳以上の老いた女性が、急に食べ物はいらないと言って床に就きました。それから一週間ほどして亡くなります。その間、家族の人たちが彼女の最期を看取ります。その様子が放映されています。彼女のひ孫の小学生も亡くなる間際のひいおばあさんと接しています。家族の中で看取る中で、人間にとって死は当たり前のこと、普通のことと人は受けとめていくという<経験>がそこに生まれます。次いでに言えば、この時の看取りの様子が写真絵本になっており、それを購入して読みました。妻も小さい頃、自宅で祖父の死を看取ったと私に話してくれました。


 今月初めに行われた修養会の反省会をしていたときのことだと思いますが、ある方が、「私は、祖父母の最期を看取ったので死は自然のものという受けとめ方をしてきた」と語っておられました。他方で、死を恐れる人はいるし、この恐れから解放されたい、自由にされたいと考える人もいます。イエス・キリストの復活により死を越える希望のあることを信じ、救われる人がいることも確かです。少なくとも聖書は、死を自然現象以上の意味を持たせています。死には、神の裁きという面があります。


 年を取るということは、死を受けとめ直すというか、信仰をもって死に向き合うことなのだと思うこの頃です。私は牧師ですから、信仰をもって死と向き合うとは、言い換えると、いかに神の国の希望を希望とし、喜びとして受けとめるかということです。心からの喜びをもって神の国の希望を語ることができるということです。教えとして語るのではなく、自分が与えられた喜びとして語ること。この年齢でこそ、果たすことができる課題ではないかと思わされています。この課題を果たせるのかという不安、それが最近の重苦しい思いの原因なのかも知れません。